権力への意思なんていうことを単純に考えてしまうと、自分が王様的なものになるかというような願望? ということになるかと思うけれど、ニーチェの「権力への意思」とは、もちろんそのようなものではない。


   

粘菌という生物をご存じだろうか。

細胞性粘菌の生活様式

細胞性粘菌は、食料が豊富なときは、それぞれの個体が「アメーバ」の形で増えていく。ところが、食料が減ってくると近くの個体が集まり細胞質融合を起こし、細胞の「集合体」となり、広範囲を移動する。さらに食料状態が悪化すると、「子実体」というきのこ状のものになり、先端から胞子を多数ばらまく。この時、胞子以外の部分は死んでしまう。  




もしだよ、粘菌の個体のそれぞれが自己の基本的人権的な生存を主張して、粘菌細胞の集合体になることを拒否したとするなら?  さらにだよ、粘菌細胞の集合体が、何らかの道徳観念を発揮して、「子実体」という集団内での生と死を明確に分けるシステムを拒否したとしたら?  

粘菌は種としてこの世界に生き残ることは出来なかったであろう。粘菌は個々の生より、種としての生きる意志を優先しているわけだ。 

分かりやすく粘菌に例えてみたけれど、同じようなもので、ニーチェは、人間という種としての生きる意志を、「権力への意思」と言っているのではないだろうか。   

すなわち、「権力への意思」とは、とても近代国家群に住む人が受け入れられるようなものではない。ニーチェ哲学が謎だとか言われるのは、理解すら拒否されているところがあると思う。


【ニーチェ「権力への意思 202」】

「頽廃の大仲介者たるプラトンは、道徳の自然性を理解しなかった最初の一人である」  

プラトンは何と何を仲介したのかというと、文脈からして、ユダヤ教とキリスト教だろう。私はニーチェを読む前から、プラトンの言説こそがキリスト教時代を伏流し、近代ヨーロッパを巨大な文明として持ち上げたと思っていた。ニーチェが私と同意見だったとは心強い。  では東アジアは何の言説によって持ち上げられつつあるのだろうか。   

私は、日本は明らかに孟子の言説によって持ち上げられたと思っている。おそらく今の中国も同じだろう。  ウェーバーでさえプラトンに辿り着けなかったのだから、もうプラトンの言説はヨーロッパでは力を失っているのかもしれない。しかし、孟子の言説は東アジアでまだ生きている。世界が無意味に見えたとき、人生の価値を見失った時、孟子に戻ればいつでも浩然の気のおこぼれにあずかれる。   

孟子を読め。  

ニーチェが生きた19世紀後半というのは、ヨーロッパ一強時代だった。ニーチェが気に入らなかったことのひとつは、プラトンが勝手に決めた価値観の序列が、唯一の価値観になって世界を覆っているという閉塞感だったろう。しかし、我々は現代において孟子の言説をてこに東アジアの明らかな勃興をみた。  

プラトンは相対化されただろう。  

ニーチェはすばらしいけれど、やはり言いすぎのところがある。



【ニーチェ「権力への意思 227」】

「彼らは、肉体の要求、肉体の発見を軽蔑し、勝手気ままに無視しようとする。かくして、肉体のあらゆる全感情を道徳的価値へと還元する。病気自身も道徳によって制限されていると考えられ、事情によっては自発的に病気にかかる」




【結核がかっこいいという時代があった】


日本は西洋国家以外でいち早く列強に参加した。現代中国の明らかな勃興を見れば、日本は東アジアの伝統の歴史的言説をてこに、自らを持ち上げたということは明白だろう。

ところが、昭和以前はその辺が曖昧だった。西洋の真似をする、とにかくなんでも真似をするというのが流行というか、一つの価値であったというのは記憶に新しい。  

今から考えると、馬鹿どもが西洋の価値を過剰に評価する一方で、東アジアの伝統的価値を地道に積み上げ日本を持ち上げていたということがあったということになる。   

昭和以前における西洋崇拝の馬鹿げた流行の例を一つ挙げよう。   

昔、「結核」がかっこいいという流行があった。日本での始まりは徳富蘆花の結核小説「ホトトギス」あたりだろうと思う。現代少女マンガの金字塔「ベルサイユのばら」にも、主人公のオスカルが咳ををしたら手に血が?という場面がある。 

「それは結核です」  

結核は華麗な死を予兆する伏線となっていて、オスカルはバスティーユの戦いで死ぬ、結核ではなくて。  

結核ブームなるものはなんだったのか。結核がかっこいいなんていう流行がいかにして可能なのか。 

すなわち結核愛好の流行とは、肉体を軽視した時に現れる道徳的価値の一つの堕落した表現なんだよね。  

徳富蘇峰と徳富蘆花、きわめて優秀な兄と流行を追いかける足りない弟、A級戦犯容疑の兄と「ほととぎす」の弟。  

結核のイメージは、日本の近代に何らかの意味を付加しただろうか?



【ニーチェ「権力への意思 317」】

「つねに人間の中等品を尺度として測られるなら、、、」  

そういえば、近代以降の道徳というのは、中産階級をターゲットとして設定されていると言えなくもない。誠実、信用、勤勉、正直、みたいな通俗道徳が結局は近代国家の原動力だったというのは間違いないところだ。日本もそうだったし、ヨーロッパも同じだ。  

実際に労働をする場合には、小回りがきくみたいなことも必要なのだけれど、やはり誠実とか勤勉とかは基本だろう。よく考えると、誠実とか勤勉という徳目は、ある程度の努力で習慣化できそうなレベルで、凡人向けではある。 

誠実、勤勉が、よりすばらしい理想にいたる階梯だというのなら、別に問題はない、覚めない夢みたいなものだ。しかし、誠実、勤勉が、中等程度の人間を大量生産するために作られた徳目だとするなら、これは看過できない。誠実と誠実のふりをすることとの区別がつきにくくなる。 

例えば、新聞を読んだときに、この新聞は信用できると思って読むのと、この新聞にはどこにどんなバイアスがかかっているかわからないぞと思って読むのとでは、コストが異なってくる。誠実という徳目が真か偽かというのはあまり意味がなくて、誠実をローコストで信じあえる中産階級というものに意味がある。それをニーチェは、「誠実という徳目は中等品の尺度」だというのだからキツイよね。          

同じ箇所でもう一つ。
  
「徳は伝達されないのである」  

プラトンの「プラタゴラス」でソクラテスも同じようなことを言っていたのだけれど、ニーチェとソクラテスが同じことを言うのが解せない。 

ニーチェは率直に語るから、ひねっているとすればプラトンのほうだと思う



【この世界は何故このようにあるのか】


ニーチェは「権力への意思」のなかで、近代的価値を一掃し、新しい価値世界をつくるべきだと唱えている。



この世界は何故このようにあるのかと不思議に思ったことはないだろうか。  

現代世界を確定した価値とは何かというのを、突き詰めて突き詰めていくと、西洋ではプラトンの正義論、東アジアでは孟子の性善説ということになる。思索する個人は最後に問われる。  

性善説を信じて、この世界を受け入れるか、性善説を拒否して、この世界を再編成するか。  性善説を拒否しながらこの世界でよろしくやろうというような考え方は成り立たない。そのような考えは社会に寄りかかった甘えであり、精密に議論されるなら簡単に論破されるレベルだ。逃げれば論破されないと思ったら大間違いだ。人は死ぬ。死ぬまでに、この世界での意味を問われるときが必ず来る。お金が沢山あるとか、愛する人に囲まれているとか、そのような状況などは、自分が社会に甘えてしまった弱さとは何の関係もない。  

「権力への意思 第1書、第2書」で、ニーチェは世界の価値を相対化して、読者を、正義は真理であるという場所から正義を信じるかどうかという場所にまで連れ出す。正義を信じるという者はそのままでいい。しかし、正義を信じないという者には、新しい価値秩序が必要だ。近代社会は、そもそも正義を信じないなどという人間のためには構成されていない。   超人には新しい価値秩序が必要で、その新しい価値秩序とは何かというのが「権力への秩序 第3書」以降で書かれている。  

個人的には、孟子の性善説を信じてこの世界を受け入れるという人生で悪くないと思っている。



【ニーチェの言う「権力への意思」とは何か】

権力への意思とは認識を確定する力みたいなものだと思う。これだけいうとよくわからないと思うので、例をあげてみる。  

いつも水曜日にする仕事があったとする。これを火曜日にやってもいいんじゃないかと思って、ある日実行したとする。うまく火曜でもやれるじゃんみたいなことになった。その仕事を火曜日にするようになったら、そのうちその仕事を火曜日にしなくてはいけないような脅迫的心情を抱くようになってきた。

このようなことは、仕事でよくある。フレキシビリティーを求めていたにもかかわらず、固定観念が発生してしまうという。このような観念を固定するところの力を、ニーチェは「権力への意思」と言っているのだろうと思う。固定観念にもいろいろあって、ゆるゆるのやつもあるだろうし、誰でも持つような極めて強固なものもあるだろう。上記の例はゆるゆるの部類になるだろう。  

これがもし、きわめて強固だと思われている概念が、実は固定観念だとしたらどうだろうか。民主主義、自由、平等、民族、独立、正義、神。これらの諸概念が真理ではなく、固定観念だったとしたらどうだろうか。真理は真理だから我々に真理として立ち現れるのではなく、ありふれた概念が何らかの力によって強力に固定されたものが真理ということになるだろう。こうなると真理は真理ではなく、世界を支配しているのは、権力への意思ということになる。



【もう一つの考え方】


「権力への意思」とは何かというと、概念を確定する力的なものだと思う。

概念を確定する力というのは至る所にある、というかこの世界にはこの力しかない。至る所に概念を確定しようとする力はあって、それぞれの力同士が、互いに同じ領域で概念を確定しようと争っているという。

プラトンが正義の概念を確立したのは、概念を確定しようとする力同士の争いに決着がついたからだということになる。物理の法則も、「権力への意思」の間における闘争の便宜的な平衡状態の表示、ということになる。   

ニーチェの言いたいことは分かるのだけれど、常識では理解しにくいというのはあるだろう。  

ただ、ニーチェのいうことも一理あるとは思う。現代において科学は発達した、すばらしい。ただ肝心なところが分からない。意識とは何なのか、進化とは何なのか、生物とは何なのか。

物理学は時々奇妙な論理を繰り出したりするのだけれど、あれってどこまで本気なのかって分からないところがある。例えば「シュレディンガーの猫」とか、猫は半分生きていて半分死んでいて、確認された時点で生きたり死んだりするみたいな。それ本気か? おそらく自分が頭がいいと思っている人たちのサークル内では、この微妙な感覚が理解できたら頭がいいみたいな合意でもあるのだろ。嘘でももう少しマシな嘘をついてもらわないと困る。  

この世界を理解するための要素が一つ足りないということはありえる。なんせ、肝心なことが分からないのだから。粗雑に言ってしまうなら、この世界を理解するためのたった一つの要素というのが、概念を確定する力であって、ニーチェはこの力を「権力への意思」と呼んでいる。この「権力への意思」を貫徹することによって、この世界の価値観を再編成しようというのだろう。  

キリスト教や西洋世界を相対化しようというところまでは、ついてこれる人もいるだろう、フーコーやウェーバーみたいに。しかし、「権力への意思」とか言い出すと、オカルトっぽくなって、理解できる人も少なくなってくるだろうとは思う。渾身でこの世界の奥に手を突っ込もうという。



【さらにもう一つ】


この世界には細分化された同種類の力的なものが溢れていて、力同士が互いに互いを同化しようと争っているという。このような争いが、さまざまな位相、物質だったり、細胞だったり、人間だっり、認識だったりという全ての位相で行われているということだろう。

世界が力の相克だとするなら、善と悪、神、正義、平等、人権、そのようなものは意味がなくなる。例えば、「正義」というのは、そもそも力の相克を調停する観念だ。善と悪、神、平等、人権なども結局似たようなものだろう。  

この現代世界は、確定された観念にしたがって個人が行動するというのが普通になっている。なぜ人を殺してはいけないのか、簡単には説明できない。不倫はダメで、借金の踏み倒しもダメだという。何らかの固定された観念に私達が影響されているのは明らかだ。 

力の相克なんて野蛮な感じがするだろう。フーコーやウェーバーはニーチェをヒントに世界を相対化するような言説を展開したけれども、相対化した後の展望はなかった。気持ちは分からなくはない。この世界の価値観を相対化した後、力の相克という生々しい世界が現れるとしたら、それは大学教授みたいな人にはきついだろうから。  

結局トータルで考えてどうなっているのかというと、この世界の秩序というのは岩盤だとみんな思っているのだけれど、ニーチェの「権力への意思」みたいなものでひっくり返されるという脆弱性がある。

ヒットラーとか、今から考えると、彼はこの世界をひっくり返すという観点においては結構いいところまで行ったのではないかと戦慄するところがある。


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