ニーチェ「善悪の彼岸 44」にこのようにある。  

「自由精神の人と呼ばれている連中は、簡単に言えば、水平化するものの部類なのだ」
   
論理は明快だと思う。  

ここでいう自由精神というのは、当たり前なのだけれど近代自由主義における自由精神ということだ。ところがニーチェは、近代自由主義が規定するその枠組みそのものが気に入らない。気に入らない近代自由主義が規定する自由精神なるものは、「自由」精神ではないだろうというわけだ。  

ニーチェは、水平化も気に入らない。人間の権利の平等、すなわち水平化はそれ自体文明の進歩のように聞こえるのだけれど、人間の精神エネルギーの減退につながっているという。これは、一昔前の老人が、最近の若者はハングリー精神がないとよく言っていたけれど、まあ似たようなものだと思う。   

ニーチェの言説は、世界を相対化しようという観点は画期的なのだけれど、その後はどこまでも付き合えるというものではないという印象だ。  

もう一度、「自由精神の人と呼ばれている連中は、簡単に言えば、水平化するものの部類なのだ」という言説をよく考えてみる。 

そもそも近代世界における水平化の理念というは、そう簡単にひっくり返せるものではない。

日本の場合を考えてみる。明治維新から太平洋戦争にいたるまでの日本近代の歴史というのは、日本総体が国内や国外において「水平化」を求めた苦闘の時間だったと思う。このことは、ある一定以上の知識と知能のあるものなら理解してもらえるだろう。

文久3年生まれ、明治大正昭和を生き抜いた大言論人徳富蘇峰はこのように語る。
「大東亜戦争は世界水平運動の一波瀾であった。いってみれば、明治維新の大改革以来の、継続的発展であり、いわば明治維新の延長であるといっても差し支えない。いやしくも一通りの歴史眼を持っているものは、この戦争は全く世界の水平大運動の、連続的波動であったことを、看過することはできない。しかるにその水平運動は、運動の拙劣であったために、水平どころか、さらに従来の差別に比して、大なる差別を来したることは、所謂事志違うものというの外はない。即ち水平運動の仕損じである、失敗である」

日本の近代において、この水平化の理想に何千万という日本人の情念が詰まっている。ニーチェがいくら、水平化とは近代にのみ現れる特殊な価値観だと、その相対化を試みても、その理念に血を流した歴史がある国では、国民の連帯感の否定までは行きにくいと信じたい。  この世界における価値観というのは、どれも対等なのだろうか? それとも価値観には序列が、優劣が、あるのだろうか? 私はね、価値観に序列をつける世界のほうが生きる意味にあふれていると思う。今の日本には、まだ価値の相対化を拒否するようなエネルギーが残っているだろうか。太平洋戦争を戦うなんていうことを選んだあのエネルギーがまだ残っているだろうか。

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