ニーチェは「悦ばしき知識」で、様々な価値観を相対化しようとしている。
ニーチェの言葉にある「深淵をのぞき込む」とは、価値が相対化されて、人々がすがるものを失った有様を表現している。


ニーチェは、プラトンが傾けた西洋世界を相対化しようとしている。ここが分からないと、ニーチェを読んでもよく分からない。ニーチェにとっては、プラトンがラスボスだ。キリスト教というのは中ボスだ。ヘーゲルやカントレベルは小物扱いだね。   

まずもって、プラトンをひっくり返すというのは、並大抵ではない。プラトンの言説は正義と直結している。 

正義とはなんなのだろうか。ハトや犬の世界に正義などというものは存在しない。人間の全ての社会に正義が存在するというわけでもない。正義とは、強力な言説によって秩序付けられた世界に立ち現れ、その世界の秩序を強力に補強するところの、一つの観念なんだよね。正義と秩序は、プラトンの言説によって寄り合わされ2200年の時を越えて、西洋文明を強力に持ち上げてきた。正義、秩序、2200年、そしてプラトン。ニーチェはこれを相対化しようとしている。まずもってムリ、絶望的な戦いだよ。   

ニーチェの言葉の断片が、我々の耳にかっこよく響くというのはあると思う。
ニーチェの言葉はかっこいいのに、トータルとしてほとんどの人が理解できていないのは何故か? 

マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本の中で、このようにいう。   

「プロテスタントの言説がヨーロッパ社会の価値観を秩序付けて、ヨーロッパ社会は進歩史観の傾いた世界となった。プロテスタントの言説が失われても、ヨーロッパ社会の傾きは残り、さらにその傾き自体が再生産を始めた」  

このプロテスタントの言説という部分を、ヴェルナー.ゾンバルトに突っ込まれている。プロテスタントの言説だけではなく、ユダヤ人やキリスト教や、さらにいえば白人の遺伝的な優越性も西洋の躍進に貢献しているのではないか、というわけだ。こうなると議論が拡散してしまって、どうしようもない。そもそも、マックス・ヴェーバーのプロテスタントさらにいえば、カルヴァンの予定説が西洋世界を傾けた、という仮定に無理がある、力不足だ。はっきりいえば、マックス・ヴェーバーの想定する世界を傾けた強力な言説とは、その仮説の枠組みが正しいとするなら、まさにそれはプラトンしかありえない。いやしくも一定以上の知的レベルにある人間がプラトンを読めば、その迫力に感嘆せざるを得ないだろう。
それはニーチェ渾身の悲愴の言説が、かすかに私たちに届き、私たちの周りのくだらない事象をそれなりに相対化してくれるからだろう。

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