ニーチェ、「悦ばしき知識 第5集」において本気を出してきた。すごい、プラトンや孟子レベルだろう。  

実際読んでみれば分かるのだけれど、ニーチェの言説というのは率直で、簡単なことを難しく語ろうなんていうひねたところは全くない。近代西洋哲学には、たいしたことでもないのをムリに難しく語るという伝統というのはある。日本も酷かった。   

象徴的なのはミッシェル.フーコーだと思う。フーコーの初期の言説というのは、正直、何を言っているのか理解できない。一転して、後期の言説は分かりやすい。

フーコーがやろうとしていたことは、現代の価値体系を相対化しようということだった。こう言うともし分けないのだけれど、初期のフーコーが目指したものは、現代の価値観を揺るがせて、その隙間に自分を押し込んで社会的によろしくやろうということが疑われる。

これの酷いところは、フーコーが現代の価値体系を相対化しようとしたそのネタ元がニーチェであって、ニーチェ自身は、自らの思想を全くざっくばらんに語っているという点だ。フーコーというのは、基本的にいい人であって、ニーチェをネタ元にしながら、ニーチェより難解な言説をあやつってよろしくやるということに罪悪感を覚えたのだろう。後期には分かりやすい言説を心がけるようになり、最後期にはおずおずとニーチェがネタ元である事を認めるにいたったわけだ。  

これよりひどいのが、フーコーに影響を受けただろう日本の評論家達だ。ある有名な元東大総長は、日本においては、分かるような分からないような言説を語る。もっと突っ込んで言えば、分かるところでは近代の価値観を相対化するようなことを言い、分からないところでは相手を煙に巻くことに専心するという態度だ。さらにネタ元はフーコーで、フーコーに直接インタビューなんていう栄誉が与えられたなら、全く犬のよう、ワンワン、日本での態度が考えられないほどだ。日本の恥だろう。  

ニーチェは渾身の力で世界を相対化しようとした。その言説を利用して、自分の周りの世界を揺らし隙間をこじ開け、そこに身を寄せ自分の社会的身体の栄達を計るなんて下の下だね。    

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