結論から言えば、ニーチェは「悦ばしき知識」において、価値観を相対化しようとする。

この現代社会というのは、様々な事象によって巨大な体系が形成されている。体系に組み込まれていると認証された事象には、程度に応じて価値が付与されている。価値の体系が現代社会の秩序を維持している。逆も考えられる。現代社会が、秩序維持のために価値の体系を必要としている。   

例えば、医学というものを考えてみよう。現代の医学というものには、かなりの価値が与えられている。

医者というのはスーパーハイスペックな職業とされている。
しかし、近代以前においては、医者というのは特別尊重されるほどの職種ではなかった。おそらく、医学というものには、現代において何らかの社会秩序を維持するための役割が期待されているのだろうと推測される。
    
ニーチェは、このような近代価値体系を解体して、さらに「悦ばしき知識」の中で、この価値群を再編成しようとしているのだと思う。   
問題なのは、ニーチェが近代の価値体系をどのように再編成しようとしているのか、ということだ。   

そもそも、近現代の価値体系というのは、完全に合理的には出来てはいない。現代社会は、現状において合理的であろうとはしているが、未来においてもこの社会が合理的であるべきだという責任にまでは思い至っていない。人権や民主主義を標榜する現代の限界というものはあるだろう。   

この現代の秩序体系に対抗して、ニーチェは、時間軸を長く取って社会の秩序というものを維持していこうということなのだろう。大げさに言えば、「人類という種の継続」に価値体系を再編するべきだということになる。   

これは恐ろしい思想だよ。 

ある種の蝶は、何年かに一度、何千匹と北の海に向かって飛び立っていくという。寒さで全ての個体が死んでしまう。しかし、蝶は種として、気候変動で北の大地が生存に適したものに変わっている可能性に自らの一部を賭けているわけだ。
    
「人類という種の継続」に価値体系を再編するというのは、この蝶のような話になってくる。人間個人の意識というものを、はるかに越えてくる。種の継続に現代の価値体系を再編するという思想は、突き詰めれば、まあ突き詰めなくても、ヒットラーの第3帝国的な理論に帰着してくるだろう。現代においては、そのような思想は「悪」と判定されるが、もちろんそのような価値判断がひっくり返っているような社会システムもありえるだろう。

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