ニーチェは「曙光178 日々使い古される人々」で以下のように言う。率直過ぎるニーチェの言説。  

「この若者達には、人格も、才能も、勤勉さも不足していない。しかし彼らには、自分自身に或る方針を与える時間が決して許されなかった。むしろ彼らは、幼時から或る方針を受け取るように習慣付けられた。彼らが荒野に送られるに足りるほど成熟したその頃、幾分違った扱いがなされた。  
彼らは利用された。彼らから自分自身が奪い取られた。彼らは日々使い古されるものへと教育された。それが彼らの倫理学となった。   
そこでいまや彼らは、それをもはや欠くことは出来ないし、それ以外を望んでもいない。この哀れな牛馬に、その休暇、すなわち思う存分ぶらぶらして過ごし、愚か者のように子供っぽくなることができるという、過労の世紀の理想がそう呼ばれるところの休暇を与えないことだけは許されない」  

ニーチェ、率直過ぎるだろう。

近代以降の先進国社会というのは、大小さまざまな価値が体系をなしていて、そのことによって社会秩序が維持されているという形態になっている。これは当たり前のようで当たり前ではない。近代以前においては、社会秩序というものは積み上げ方式だった。

現代日本においては、仕事と遊びというのは明確に区別されている。仕事をするときは仕事をして、遊ぶときは遊ぶというのが、まあ出来る男のスタイルだなんていう考え方すらある。しかし近代以前においては、仕事と遊びというのはあまり区別されていなかった。

仕事をするように遊ぶ、遊ぶように仕事をする、このようなことがかつては当たり前だった。すなわち、仕事と遊びを区別するというのは、それ自体に意味があるというものではなく、この社会の秩序を維持するための何らかのトリックなんだよね。

仕事と遊びを区別する大人の流儀なんていうものは、それだけ取り出してみれば、結局この程度のもの。

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