リベラルとは市民という意味だ。伝統世界から切り離され、都市に暮らす有産階級というのがより正確か。日本においては、明治以降、国家全体として近代化していこうということで、地方の指導者階層も人民の教育というものに中央集権的な要請があった。  明治以前においては、貴族とは武士上層部のことであって、貴族武士に人民を教育するなどという思想はない。これに対し農村指導者層には人民を教育指導するという責任があった。リベラルとはこのような人たちを指すべき言葉であって、すなわち貴族とリベラルとは全然違う。  近代ヨーロッパにおいては、ブルジョアすなわちリベラルが貴族化するということはあった。代々こつこつ働いてお金持ちになったのだからもう貴族みたいな生活をしていいよね、というわけだ。まあ、日本にもそんな勘違いをするやつもいるだろうとは思うけれど、そんなものが日本で「ブルジョア貴族」として認知されるなんてことがありえただろうかと思う。  このへんは人それぞれの感慨だろうけど、私はそんな社会的状況は日本においてはなかったと思う。  リベラル言論人がかつて何らかの発言をして、まあそれがみんなにちやほやされて貴族あつかいされるということはありえるだろう。それをうらやましがって、後になってリベラルが貴族だなんて語るとしたなら、もうこれはルサンチマンだ。ルサンチマンも市民階級の勤勉を支える一つの思想ではあると思うけれど。   丸山眞男は、「天皇制が日本人の自由な人格形成――自分の良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式を持った人間類型の形成――にとって致命的な障害をなしている」と語ったらしいけれど、この言説はぬるいよ。天皇制がなかったら日本人の自由な人格形成がたちどころに促進されるなんて、そんなことはありえない。極論すれば、天皇制が廃止されたら、精神病院に入院している患者がたちどころに正常人になってしまうということになる。天皇制が廃止されたら、ヒステリー気味の妻がたちどころに思いやり深い女性に変身するということになる。  ありえない。  論理は逆なのではないか。  自分の良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う国民を育成するために、微力とはいえ天皇制が存在していると考えるべきだろう。