最近は微妙な精神状態でも病名がついたりする。このままだと正常な精神状態の人間の方が少なくなってくるのではないかというレベルだ。私なんかもやばい、空気読めない病だとかザックバラン病だとか上から目線病だとか、いろいろ言われそうで怖い。  

狂人にたいする許容度というのは、近代以降格段に落ちた。明治時代の思い出話みたいなものを読むと、どの村にでも気狂いみたいなのはいて、村の中で馬鹿にされたり優しくされたりして、自由に行動している。福沢諭吉の自伝のなかで、福沢諭吉は子供のころ、母親と一緒に、村をふらふらしている気狂い女の頭のシラミをいっしょにとってあげたという話があった。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、スメルジャチシャヤという気狂い女がでてくるのだけれど、この女性、好き勝手に村を歩き回る。村人はこの気狂い女をあるときはいじめ、あるときは優しくする。ただ村人は気狂い女が村を勝手に歩き回っていることに疑問を感じない。近代以前は狂人は村社会と共生していた。  

現代はどうなっているのだろうか。あまり狂気の人というのも見ない。統計的に比較することも出来ないのだけれど、狂気は精神病院や何とかホームや各家庭で隔離的あつかいをうけているのだろう。何故こうなってしまったのか。民主主義や人権が叫ばれる現代で、狂人の社会的地位が近代以前より低下しているのは何故なのか。  

昨日、小説と物語との違いの話をした。物語とは事象同士が合理的必然性ではなく伝統的なつながりによって成立したものだろうということ。狂人とは、事象と事象を自分勝手に結びつける。近代以前は事象と事象とは伝統によって結び付けられていた。すなわち近代以前の人にとって狂人とは、伝統的な物事のつながりを知らない馬鹿だということになるだろう。現代においては狂気と判断される人も、実際に害を及ぼさない限りは狂人と判定されることもなく、単なる馬鹿として放置されたのだろう。  

現代においては、事象と事象とは合理的な価値によって結ばれている。これを個人の勝手な確信で結び付けられてしまったのでは、合理的世界自体が崩れてしまう。狂気に耳元で、

「きれいはきたない、きたないはきれい」

なんてささやかれたら、頭がおかしくなってくるだろう? 狂人が現代において排除されてしまうというも、しょうがないといえばしょうがない。狂人を排除しないとするなら、そこにはある種の覚悟が必要だ。  

ある狂人が事象と事象との間に非合理なつながりを確信していたとする。その人を助けたいと思ったとき、狂人の確信を受け入れてみようということもあるだろう。その時、もしその非合理なつながりが美しいものだったらどうする? そこにおいて合理的な世界に戻るという非合理な確信が、はたして持てるだろうか。  

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ  

というのはこのような意味だろう。