小説、物語、文学ってどう違うのかって考えてみた。昨日、近代以降の精神世界は二層構造になっていて、上層部は様々な事象が意味として秩序付けられていて、下層部は様々な事象が基本的にばらばらに存在しているって書いた。これを利用して、小説、物語、文学の違いを説明してみる。   小説とは、人間意識の上層部に成立する言説集合だろう。小説の登場人物たちは、社会の価値の傾きに従って、話し、行動し、対決する。合理的推論が支配する世界。これは大衆小説も純文学も変わらない。純文学だからといって、純文学に合理的推論より高尚な理論があるわけではない。  物語とは、人間意識の下層部に成立する言論集合だ。この下層部では、様々な事象がばらばらに存在していて、どの事象同士がつながるかというのは合理的必然的には決定されない。これが夢だったりするととんでもない事象同士がつながったりするのだけれど、物語においては、歴史的に決定された事象の組み合わせということになる。例えば日本では、春、桜、花見、という繋がりがあるわけだ。さらに例えをだせば、金閣寺なんかも、金閣寺それたけで美しいというものではない。金閣寺にまつわる歴史をいろいろ知って、その上でじっくり金閣寺を見ると、なんとなく美しいような気がしてくるとか、まあそのようなものだ。このように歴史的恣意的につなげられた事象の言説集合が物語だ。  森鴎外のヰタ・セクスアリスなんかは小説だけれども、後年の時代物は物語で、一人の作家でも小説と物語を使い分けるということはありえる。  では文学とはなんだろうか。  文学とは小説や物語を越えた、最も力強い言説としての何かだ。私はあえて文学のハードルを上げた。クソつまらない言説を文学といって欲しくない。さらにいえば、文学とは歴史的に物語世界から小説世界を離陸させた原動力であり、すなわち小説の起源であり、物語世界と小説世界の二つを併せ持つ強力な言説集合だ。  果たしてそのようなものが存在するのだろうかと不思議に思うだろう。  誰にも負けない強い力を僕は一つだけ持つ。  日本の場合、唯一の文学は吉田松陰の「講孟箚記」だと私は断言する。これ以外にはちょっと考えられない。講孟箚記の迫力というのははんぱないよ。「講孟箚記」には桜も金閣寺も美人も探偵も出てこないし、大団円もないし殺人事件も起きない。でもそんなことどうでもいことだよね。