近代以降の私たちの精神世界というのは、二層構造になっている。上層部は様々な事象が意味として秩序付けられていて、下層部は様々な事象が基本的にばらばらに存在している。例えば、A、B、C、という事象があるとして、意識の上層部では、このA、B、C、がこの順番で秩序付けられているとしたら、AはBと、BはCと結びつくが、AとCは結びつかないということになる。意識の下層部では、事象は秩序付けられていないから、AはBともCとも結びつくということになる。  

分かりやすい例をあげよう。  

私は子供のころ、よく妹を殺す夢を見た。別に妹と仲が悪いわけではない。両親が死んだ現在でも、妹とは連絡を取り合っている。夢で実際に妹を殺すわけではない。正確に言えば、夢で私がいて妹がいないという状況があったら、ただちに自分が妹を殺したと確信してしまう。これはまずい、ばれたら大変なことになるとリアルにびびる。これが意識下層部のありかただ。私がいて妹がいないとなると、現実世界では、妹はどこかに出かけているのだろうとか、隣の部屋でテレビでも見ているのではないかとか、何らかのワンクッション的事象をはさむものだ。ところが夢では、私がいることと妹がいないということが直接結び付けられて、私が妹を殺したということになってしまい、ただちに私はそれを確信してしまう。  
近代以前も、おそらく人間の意識は上層部と下層部に分裂していたけれど、その差はあまりなかっただろうと思う。近代に入って、人間意識の下層部と上層部は懸絶してしまった。なぜ懸絶してしまったのかといえば、歴史的な条件みたいなことになるだろう。意識上層部に住む現代人にとって、意識下層部の世界というのは、夢であり狂気でありロマンでありイマジネーションの源泉であるとのイメージとなる。柄谷行人は「意味という病」という評論集の中で、意識下層部の世界を、夢や志賀直哉や森鴎外に託して語っている。柄谷行人がこの着想をどこから得たのかというと、私は坂口安吾の「文学のふるさと」からだと思っている。   

この世界には自然にあこがれる、みたいな人がいる。自然サイコーのような、自然は私をやさしく包んでくれるみたいな。私は断言するのだけれど、自然とはそのような生易しいものではないよ。自然とはやさしいどころか、全くのグロテスクだ。意識の上層部が人工の物だとするなら、意識の下層部が自然ということになるだろう。すなわち自然とは、私がいて妹がいないとなると、私が妹を殺したと、私に直ちに確信させるところのものだ。人間世界の意味というものを何の感慨もなく踏み潰すところのものだ。私としては結局のところ、人間はこの傾いたこの世界のギリギリのところで孤独に生きるしかないと思うんだよね。力足りなくて、金持ちになれなくても、人から評価されなくても、それはたいした問題ではない。傾いたこの世界のギリギリのところで生きるということが大事だと思う。それ以外にどうしようもない。