マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本の中で、このようにいう。 

プロテスタントの言説がヨーロッパ社会の価値観を秩序付けて、ヨーロッパ社会は進歩史観の傾いた世界となった。プロテスタントの言説が失われても、ヨーロッパ社会の傾きは残り、さらにその傾き自体が再生産を始めた。  

ヴェルナー.ゾンバルトの「ブルジョア」も、これと枠組みは同じだと思う。ただゾンバルトの興味深いところは、なぜ社会を傾けた強力な言説が失われても、社会の傾き自体は残るのか、を考えているところだ。ゾンバルトは様々な要因を指摘する。国家、新大陸も含めた移住、新大陸の金銀、科学技術。どれもこれも、内実を失った資本主義をここまで持ち上げた大物ぞろいだ。さらにゾンバルトは、資本主義を支えるキラリと光る脇役を付け加えてくれた。それがニーチェのいうルサンチマンだ。ルサンチマンというのは、貴族生活に対する小市民の恨みだ。小市民の勤勉さや誠実さや合理性こそが資本主義を支えている。しかし、小市民はその勤勉さを何によって支えているのか? 寄りかかるべき強力な言説は失われてしまった。その支えの一つが、金持ちを妬むというルサンチマン的心情ナわけだ。これって、言われてみると極めて分かりやすい。  

私はある大手企業内でゴミ回収の委託業務をしている。実際に企業内でゴミを回収しているオジサン達は、社員のゴミだしマナーが悪いといつもぼやいている
。「大卒なのにゴミもちゃんと出せないのか
」という言い方をする。大卒とゴミのマナーとは関係ないと思うけれど、ゴミ回収のオジサン達の心情としては、大学にいけなかった自分でも大卒よりゴミのマナーは上だし、さらに言えば仕事に対する誠実さも負けない、とまあそういうことだろう。実際、こういう言い方をすると申し訳ないのだけれど、彼らはとろいわりにまじめにやっているよ。このように、ルサンチマンが誠実な労働を支えるということはありえる。
強力な言説を失って、空っぽの心の行う労働をルサンチマンが支えているなんて恐ろしい話ではあるのだけれど。