孟子の時代、古代中国の紀元前300年、中国大陸は総力戦の戦国時代だった。春秋戦国の後期ということになるか。日本の戦国時代の名称も、中国の春秋戦国の戦国からとられている。

孟子の時代、紀元前300年の中国大陸は、七つの巨大な領域国家が覇を争うという状況だった。そもそも「国家」という言葉は、君主の治める国と君主の家臣が支配する家とがつながって出来た言葉だ。国家という言葉自体が総力戦を象徴している。

実際に、戦国時代の中国の人口は2000万で、長平の戦いで趙という国が失った兵力が40万という。趙というのは七つあった大国の一つだから、人口300万として、そのうちの40万を失ったということになる。消耗率13%ということになる。第二次大戦の日本の消耗率は4%程度、ソ連は14%だったから、中国戦国の総力戦の具合というのは推して知るべしだろう。

奴隷を戦場に繰り出しても、まともに戦うわけはない。国民を戦争に動員するためには何らかの強力な言説が必要だっただろう。おそらく様々な言説があっただろう。そのうちの一つが「孟子」だったと思う。

孟子は人の性善説を言い、君主は「国民の性善」を育てる責任を持つと説く。結論を言えば、君主が国民の善を育てることによって、国民は国のためにその命を自発的に捧げるようになるなるだろうということ。「孟子」は結局そのような言説にあふれている。

一つ例をあげてみよう。梁恵王章句下12を、私の現代語訳で以下に紹介する。

「穆公(ぼくこう)は孟子に尋ねる。今度の戦いで我が国の指揮官が33人死んだ。だが兵卒は誰も死んでいない。逃げた兵卒を誅殺しようにも、数が多すぎる。結局、軍の統制を保つにはどのようにすればいいのだろうか。孟子は答えて言う。あなたの国では、凶作のときは老人は川原に死体を捨てられ、若者は他国に食い扶持を求め四散している。それなのに、王の蔵には米が満ち溢れているという。これは人民を見殺しにしていると変わらない。曾子はかつてこのように言った、「戒めよ、戒めよ、汝から出たものは汝に帰るだろう」。王の民は王に仕返しをしただけだ。あなたは国民をとがめることはできない。もし王が国民に仁政を行うなら、王に親しみ、国家のために死ぬようになるだろう」

書き下し文
鄒と魯と鬨[たたか]う。穆公問うて曰く、吾が有司死する者三十三人、而して民之に死する莫し。之を誅するときは、則ち勝[あ]げて誅す可からず。誅せざるときは、則ち其の長上の死を疾[にく]み視て救わず。如之何してか則ち可ならん
孟子對えて曰く、凶年饑歳には、君の民老弱は溝壑に轉[まろ]び、壯者は散じて四方に之く者、幾千人。而して君の倉廩實[み]ち、府庫充てり。有司以て告[もう]すこと莫し。是れ上慢[おこた]りて下を殘[そこな]うなり。曾子曰く、戒めよ戒めよ。爾に出づる者は、爾に反る者なり、と。夫れ民今にして後に之を反すことを得たり。君尤むること無かれ
君仁政を行わば、斯ち民其の上に親しみ、其の長に死なん



仁政とは、国民の善を育てるような政策で、国民の性善を育てる努力をするなら、国家は一体となるということだ。これは君主が国民をコントロールしようというレベルではない。君主も国民も互いに捨て身だということだ。  身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。  孟子とは戦国というギリギリの世界のギリギリの言説だ。東アジアにこのような言説があることはすばらしいことだ。まったくのところ、歴史の重みというものを感じる。

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