昭和6年12月、第二次若槻内閣は総辞職した。その理由というのが、内務大臣安達謙蔵が辞表も出さず家に引きこもった結果の内閣不一致というものだ。若槻の手記を読んでもこの辺はあいまいだし、戦前の歴史書を読んでみても、若槻、幣原、井上、そして西園寺の自由主義ラインに対する安達の陰謀のような書かれ方をしている。 ところが「安達謙蔵自叙伝」にこのような部分がある。  「昭和6年9月21日、朝日新聞は大活字をもって英国が禁輸出再禁止を断行せる旨特報した。予はこの報道に少なからず驚倒し、英国がかかる政策を執る以上は、我が国独り金解禁政策を維持することは不可能なりとの信念浮動して、これを若槻総理に勧告せんと決意した」  日本は昭和4年12月、列強の後を追って、金輸出禁止を解除し、金本位制の国際秩序に復帰したばかりだった。金本位制とは巨大資本に有利な制度であるということを考えに入れなくてはいけない。イギリスという自由主義の支柱が失われたなら、日本において自由主義的な政策を維持することは不可能であるという安達謙蔵の直感は正しい。さらに安達はこう語る。  「翌22日、総理官邸に若槻と面会して曰く、財政政策の大家に対し全くの素人考えかも知れぬが、予は深憂に堪えず。そは他にあらず金問題についてなり。昨日ロンドンの電報は英国が再禁止を断行する旨報じたり。英国再びこの挙に出ずる以上、我が国独り解禁を継続するの力なきは明瞭」 これに対して若槻は「右手を振り声を低くして曰く、これは秘中の秘だが君の意見の通りと思う」 と発言したという。  安達の回想は話の筋は通っている。自分の醜い真理は語っていないだろうが、美しい真理のほうは語っているだろう。若槻がこれを井上準之助や幣原喜重郎に相談したところ反対されたんだろうということは容易に想像がつく。結局この後間もなく若槻内閣は崩壊する。  しかしこれは若槻の政治力不足というものを越えた問題だと思う。世界の近代自由主義を支えた諸言説の体系が崩れようとするとき、個人がそれを支えようとすることは不可能だ。