ホワイトヘッドは
「近代西洋哲学は全てプラトンの脚注に過ぎない」
何て言っていたけれど、これについていろいろぐだぐだ考える。

今日なんか、総力戦思想とファシズムってどう違うなかなーって。ファシズムというと全くひどいイメージで、思想を均一化して同調できないものは排除するという。

ナチスのユダヤ人虐殺はひどいよね。総力戦思想というのは、日本なら日本の一体性の中で誰もがやるべきことをやるというもので、微妙なんだけれどやっぱり総力戦思想とファシズムというのは違うのではないかと思う。

戦中の日本がファシズムだったというのは、言いすぎなのではないかなー。ナチスドイツは突き抜けたマキャベリズム的なものがあって、そこがひどいところなんだろうけど、戦前の日本にはそこまでの非人間的なことはなかったのではないかな。中国で日本軍がひどいことをしたとして、それは日本人の非人道性ということではなく、日本人の弱さだったと思うというか思いたい。  

例えばここにニートがいたとする。まあニートだからダメ人間だよね。社会の役に立たないからダメ人間は死ねという論理もありえるし、社会の役に立つように国家がそいつを引きずり出すという論理もありえる。どちらの体制がより強力な秩序を形成するのかというのは分からないんだよね。どうせ分からないのなら、全ての人が救われるなんていう可能性のある方がいいと思うんだよね。自由主義って自由っていいながら、よろしく自由を享受できない人間は死んでよしみたいなところがあるよ。これってもうファシズムではないのかな。全ての人が救われるなんていうことがありえないものかと思う。   

プラトンの「国家」という本に、国は堕落するという言説があった。哲人国家、名誉国家、金持ち貧乏国家、民主国家、僭主国家。国家はこの順番に堕落するという。哲人国家って結局は独裁制の僭主国家みたいなものではないのか、なんていう批判はありえると思う。この差というのは外側から見ればまったく微妙だとは思う。でもその中で暮らす人にとってはどうだろうか、意味がないとして殺されるのと、意味があるとして生きるのと、やっぱり違うだろう。   

まあこんなことを考えて、結論みたいなものもないんだけれど。  

正月にプラトンでもじっくり読んでみようか。近代西洋哲学は全てプラトンの脚注に過ぎないなんて、誰か言っていたよね。   

全く正しいと思う。

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