この廣松 渉の「マルクス主義の地平」は、ペダンティックで不必要な言説が多く読みにくい本なのだけれど、まあそれは1970年代の悪しき風習ということで割り引いていいと思う。トータルとして、マルクス主義唯物論をどう考えるか、もしくは昔はどう考えていたかを知る、ということにかんしてはまずまずの本だったと思う。   

廣松 渉は近代自由主義における自由というものをこのように描く 

「近代では精神的実体なるものの存在が疑われ、精神が純粋な機能に溶解されている。よって、内的な必然であってもそれに必然的に規定されるのでは自由とはいえないという考えが現代において有力になってきた」 

「何ものによっても規定されざる純粋な意思作用の自発性が自由だとされるに及び、これを論理的に徹底するなら、純粋な無が自由概念の帰結となる」  

これは別に難しいことを言っているわけではない。例えば、仕事が生きがいで、一生懸命仕事に専心する男がいたとする。昔なら、このような男は立派な男だと、まあみんなから賞賛されただろう。娘をこのような立派な男にやりたいなんて近所の人から思われたりして、無愛想なのに女のもてたりとか、そんなことだってありえたわけだ。ところが現代においては「精神的実体」なるものが疑われてしまっている。すなわち、仕事が生きがいだなどというと、現代では遊びを知らない仕事馬鹿みたいに思われてしまう。実際に子供の保護者会父親パーティーに行くと、自己紹介で仕事と趣味を言わされる。  

すなわち、現代にいては仕事の価値基準とプライベートの価値基準の二つの世界観を持つことができる男の基準だったりする。このような現象も結局は「精神的実体」が疑われたことに起因する。  

しかしマルクス主義的唯物論は唯物論だけあって、この「精神的実体」というものを拒否する。すなわちこの世界がある価値基準を共有しているのは、歴史の発展の必然だと強弁するわけだ。廣松 渉が言うに、「世界理性の目的を察知し、それを自分自身の目的として措定する」ということになる。これはこれで一つの確固とした、自己認識的な考え方だとは思う。人間がその世界観を決定するというのは普通だけど、確かに世界がその人間を決定するというのはあるよね。   

しかしこの話を押していくと、まあ例えば、俺が馬鹿なのは親が馬鹿だったからだとか、やっぱり生まれって大事だよねとかということになり、さらに押していくと、国家内の価値観は、国家が歴史の発展段階を勘案して決めます、見たいなことになるだろう。  

こう考えると、マルクス主義は斬新な考え方ではあったけど、究極的な考え方ではないよな



資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
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岩波文庫 第七巻
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まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


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