丸山真男の「日本ファシズムの思想と運動」の結論というのは、日本は近代の精神というものがドイツやイタリヤと比べて未熟だったので、日本ファシズムはヒットラーのような統一的な戦略を組むことが出来なかったというもの。この言説は、日本はとぼけていたからナチズムのようなひどいことまでは出来なかった、みたいな話で、そんなふざけきった論理が成り立つものだろうか。   そもそもファシズムとは何かと考えてみる。   近代とは何かというと、様々な価値を秩序付けるよって世界を整合的に認識しようという精神運動だろう。価値が秩序付けられた世界に暮らす人間は、そのような価値観の傾きが当たり前だと考えるようになる。かつて何らかの強力な言説が、世界の価値を秩序付け、世界の価値観は傾き、人々はその傾きを当たり前だと考えるようになり、その強力な言説は必要とされなくなり忘れ去られてしまう。もしそうだとするなら、傾いた世界のその下には傾いた分だけの空洞があるだろう。そこはかつて世界を傾けるほどの強力な言説がはめ込まれていた場所。自由主義の自由とはこの空洞のことを指す。自由主義、民主主義の自由とは、「この世界が思い通りになったらいいな」的な自由だ。束縛されないという意味に還元される。  ファシズムとは結局、世界の価値観の傾きを不安定だと考え、傾きの下にある空洞に、自由主義者が自由と呼ぶその空洞に、何らかの言説を押し込もうとする運動だ。ファシズムというのが一概に否定できないのは、失われた強力な言説を回復するという思考に合理性があるからだと思う。  分かりやすい話をしてみる。  小中高と一生懸命勉強して、まあいい大学に行ったとして、女の子と出会い結婚し子供も出来て、仕事では能力に応じて頑張って人にも評価され、年をとり孫もできてそこそこの生活をするうちに最後は死ぬだろう。このような人生においての自由とは、結局レールから外れたところの趣味という名の空洞と同じ意味になるだろう。ではそもそもレールは何で傾いていたんだ? 意味のない傾きと趣味という名の空洞。 もしこの空洞に意味のある言説を押し込むことができたなら、意味のない傾きは実体のあるものになるだろう。しかし、自由主義者にとっては、この空洞こそが自由であり、この空洞に何らかの言説を押し込もうとするものは、自由の侵害者であり、ファシズムという名で呼ばれるわけだ。  ここまで考えてみて、では日本ファシズムが戦前、ナチズムのような強力なイデオロギーを展開できなかったのは、日本の発展段階の未熟さ故であるなんていうのは、ちょっと無理なのではないかと思う。強力な言説が失われた時期が、遅いかとか早いかとか、そんなものに価値の差なんていうものがあるのだろうか。