自分、子供のころADHD(注意欠陥・多動性障害)だったと思う。  忘れ物も多かったし、テンションも今から思うに異常に低かった。通信簿の先生のコメント蘭には、ぼんやりしているとか教科書に落書きばかりしているとか、そんなネガティブなことばかり書かれていた。小学3年のときに、クラスで、忘れ物をしたら一つチェックするみたいなことをやった。忘れ物の回数を見える化して忘れ物を減らそうということだろう。私は年間を通じてクラスで忘れ物ランキング2位だった。1位は養護学級上がりの、からのランドセルをしょってくるヤツだった。あいつに勝つのは無理だよ、ランドセル以外 何ももってこないんだから。  ぼんやりするのも理由はなくはない。今から考えると、あらゆる価値が等価だったんだよね。先生の話も、机にあいたくぼみも。聞きたくない先生の話を無理に聞くと、なんだか自分を削っている様な気がした。あらゆる価値は等価なのにと思っていてその中で、人から価値観の序列を強制されると、自分を失うような気がするんだ。だから戸惑うしかない。それを外側から見れば、ぼんやりしているように見えるだろう。  中学2年の時か、フランツ.カフカの「審判」を読んだ。これにのめりこんで、二年かけてカフカ全集を読んだ。カフカってどう思う? あれって、面白いものでもないと思う。何故か世界的に評価されていて、実際に読んでみると不思議な感じがするという、その程度のものだろうと思う。カフカの何がすごいかって、きっちり説明したような評論を読んだことはない。  中学生の私は何故カフカにのめり込んだか?  ざっくり言ってしまうと、審判のKとか城のヨーゼフKとか、あれはADHDだろう。世界は異郷であって、その世界の価値観の序列に自分の心を合わせることを拒否するという。世界には何らかの価値の秩序があるらしいのだが、その価値の秩序をもたらす根本の言説を誰も語らないというぼんやりとした恐怖  「審判」なんて、物語というものではなく、断片の集合体みたいなものだ。価値が等価だと思う人間が価値の体系を押し付けられたら、「審判」みたいになると思う。    これは、分からない人には分からなくてもいい話で、分かる人には何らかの希望だと思う。