注意欠陥・多動性障害って、これは病気なのかな。あまりに症状が酷くて日常生活が送れません、というのでは問題だけれど、軽度ならもうそれは「性格」というレベルだ。  近代というものは、何らかの信念によって価値観が序列付けられている。大事なものと大事ではないものが明確になった社会では、大事なことをやらなくてはならないという圧力が生じてくる。  価値の高いものから順番に仕事をしていく人間は、もちろん正常と判断される。これを逆にして、何かやらなくてはならないという焦燥感を抱いた人がいて、この人が価値の高いものから順番に仕事をしたとして、この人はどのように判断されるだろうか。まあまあ、正常だけれどもちょっと仕事熱心だと判断されるだろう。  では、何かやらなくてはならないという焦燥感を抱いた人がいて、この人が目に付く仕事を手当たり次第にやったとしたらどうだろう。いやいやこれは軽度のADHDといわれる可能性がある。  この人は「価値観の序列付け」が出来ないのに、何かをやらなくてはならないという気持ちだけあるわけだ。  そもそも焦燥感のみを煽ったのは近代社会のほうだし、「価値観の序列付け」なるものも社会の方が勝手に個々人に割り振っているような状況だろう。 この世界では価値の判断というのは自由であるというのが建前なのだから、価値観の秩序のつけ方が社会の要請と違うからといって、病気扱いするのはひどいのではないか。 この辺が精神医学の似非科学たる所以だ。科学とはどの時代においても成り立つ岩盤の上に立たなくてはならない。少なくとも岩盤の上に立つ努力はしなくてはならない。にもかかわらず精神医学は近代世界の奇妙な傾きの上に立ち、ADHDなる病気を発明する。まさかADHDを直す薬なんてあるんじゃないだろうな。これ、かなり副作用がきつい薬になるだろう。