吉田松陰の講孟箚記(こうもうさっき)とは、日本史上最も熱いヤツが中国史上最も熱いヤツを論じたみたいな本で、全くのところ奇跡的な取り合わせのなせる業だ。嘘だと思うなら、一回読んでみればいい。  講孟箚記では、孟子を論じるわけなんだけれども、まず孟子の話をしよう。  この近代日本社会というのは、なんだかんだ疲れる社会だ。仕事をして頑張らなくてはいけないし、結婚して子供をつくってというのが奨励される。出来る男は賞賛され、ダメなニーとはクズ扱いだ。世界は何らかの力によって傾けられている。この世界が何によって傾けられたかというと、ざっくりいってしまえば孟子の言説によってだと思う。  ここまで断言してしまうと、言いすぎというか頭おかしい感じだとは思うけれども、いろいろ調べてみて、孟子が近代日本の価値を整除し、近代日本世界をまあなんと言うか傾けたというか、そう私に判断させる。  孟子の中心概念は、性善説だ。人間の性質が善であるか悪であるか善も悪もないかなんていうことは一見合理的には判断できないように考えられるが、これを巧妙なやり方で性善説に導くのが孟子であり、それはトータルで考えて正しいとしか判断しようがないものだ。  性善説は何故正しいと判断されるのか、まあこのあたりを吉田松陰と共に考えていこうというのが、講孟箚記なわけだ。  こんな世界だから疲れるということもありえる。ここは天国というわけではないけど地獄というわけでもないから。人間を性善だと信じることが出来ずに疲れて、人間は性善ではないから自分は諦めて疲れたのか、自分が疲れて人間を性善ではないと判断してしまうところに追い詰められたのか、もう分からなくなって疲れてしまうということだってある。しかしね、そんな小市民的なうじうじしたぬるま湯を越え、何らかの実体を確信するものの魂のインパクト、これが吉田松陰の講孟箚記だと思う。  明日からなんだけど、孟子の告子編とそれに対応する吉田松蔭の講孟箚記とを詳細に見ていこうと思う。