江戸時代最末期、今の岩手県の太平洋岸南部地域花巻市近辺の命助なる人物の伝記みたいな話。  命助は1820年、栗林村の有力家の分家の長男として生まれる。10歳ごろから17歳まで、、読み書きを習うために遠野まで通ったという。習った内容は四書。17歳から19歳まで秋田の院内銀山で出稼ぎをする。1853年、命助が34歳の時、釜石地方で大規模な一揆が起こり、命助はその一揆の主導的役割を果たす。その影響で、命助35歳のとき、南部藩に拘留されるが、出奔し出家する。3年後、京都の二条家家来の資格を得て、再び栗林村に戻るが、南部藩により拘束され、そのまま1864年、獄死、45歳。  波乱万丈といえばそうだろう、奇妙といえば奇妙だ。   昨日も書いたように、日本の近代というのは江戸末期から始まっている。18世紀の後半ぐらいから、日本世界は傾いてきたと思う。命助は17歳まで読み書きを遠野で学んでいたのだけれど、その内容が四書だという。  四書というのは、大学、中庸、論語、孟子、のことで、中国南宋時代に、学ぶべき最高の書物として朱子が選定したものだ。読み書きを学ぶだけなら、別に何でもいいはず、戦国策でもいいし、十八誌略でもいい。それが何故孟子なのかということ。この時点で、当時の日本はもうすでに傾いている。命助はさらに南部藩内で不利な状況になれば、京都の権威を使って、南部藩の上からなにものかをかぶせようとする。京都公家の影響力を信じて、命助は故郷での不利を覆そうとする。  結局失敗に終わった命助の試みだが、失敗したから忘れられていいというものでもないだろう。現にその何年か後に明治維新が起こっている。  朱子学が明治維新を善導したというと、ちょっと突飛な感じがするとは思うのだが、実際孟子を読むとそう不思議でもないなと思う。  孟子とはまったく驚くべき書物であって、それは世界を傾ける力を持つ。  嘘だと思うなら実際に読んでみればいい。命助もそれで傾いたのだろう。