荘子は万物は斉同(せいどう)だと言う。簡単に言うと、あらゆる価値観は等しいということ。近代以降の世界は、物事の価値観に序列をつけて世界を認識するというスタイルだ。そんな世界には疲れたなんていう人は多いと思う。あらゆる価値観が等しいなんていうことになれば、まあ、こんな楽な世界はないだろうね。うつ病なんていうのも、価値に序列をつけようとするところから発する、近代病みたいなところがあると思う。  あらゆる価値観が等しいなんて言ってしまうと、ある意味無敵なんだよね。それは頑張らない理由にもなるし、結婚しない理由にもなるし、働かない理由にもなる。そんな世界が継続してくると、おそらく否定も肯定もできないような言説が大量に現れてくるだろう。何でもいいのだけれど、例えばこの世界は巨大な亀の上にのっているだとか、太平洋戦争はルーズベルトの陰謀だとか、まあそのようなたぐいのものだ。  これがいいのか悪いのかという話。  荘子を読んで思うのは、アウグスティヌスの「神の国」に似ているということ。ローマ帝国末期、アッティラ率いるモンゴル民族がローマ帝国を席巻したとき、キリスト教徒はこれを「神の鞭」と呼んだ。アッティラを「神の鞭」って無抵抗主義過ぎるだろうと思うのだけれど、あらゆる価値が等価だなんていう世界では、何かに抵抗しようとする意識さえも存在しにくくなるのだろうと思う。  ローマ帝国は滅びて、そして二度と復活しなかった。しかし中国は違う。秦漢帝国は崩壊しても随唐帝国として復活した。中国は何度でもよみがえる。唐が滅びても宋として、元に滅ぼされても明として、清に滅ぼされても今、中華人民共和国として。これはなんなのかと思って。  世界観を傾けることによって文明は発展する。世界観を傾けることによって明確な価値の序列が生じ、それをエネルギーに文明は発展する。そして文明が成熟し世界観の傾きが修正されてくると、荘子の万物斉同のような言説が現れ、世界は終わるはず。ところが中国の特異だったところは、世界を傾けるということからさらに、時間を傾けるという思想に至ったところだと思う。例えば十八史略とか、時間に強弱をつけて、それを歴史となして生きる道標にしようという、時間を傾けて価値観に序列をつけようというわけだ。このへんがローマ帝国が滅び、中国は何度も蘇るり理由ではないかなと思う。  中国が時間に角度をつける最初というのは、孔子の春秋からではないかと思う。  あの春秋ってなんなのかと思う。  多くの人があの春秋に意味を見いだそうとした。春秋なんて、ただ魯(ろ)という小国の年代記で、時間の闇に埋もれたとしても不思議でもなんでない。孔子が魯の年代記作成にかかわったかもしれない、それだけ全く莫大な価値をえた。 春秋という年代記を、結局は今から2500年前の中国の春秋戦国時代の人々がはるか高みに押し上げた。春秋戦国の人々は、生き残りのために全くぎりぎりの戦いを戦ったという。この二つのシステムの協力が、荘子の万物斉同というガラスの天井をぶち破ったのだと思う。  すごいとは思わないか。  世界を傾けることが出来ないなら、時間を傾けてやろうなんて思考に至ること。  例えば今のアメリカ。アメリカ国民は世界を傾けることに疲れたから、トランプを大統領に選んだのだと思う。そしてこの後アメリカが崩壊していく過程で、アメリカ自身は時間を傾けて歴史を、アメリカの歴史を創造していこうなどという思考に至ることは出来るだろうか。  このように考えると春秋戦国のあの古代がどれほど偉大であったかというのが分かってくる。