思うのだけれど、人間がこの世界で生きるということは、この世界の傾きを体感するということなのではないかな。何を言っているのか分かりにくいと思うのだけれど、例えば人間以外の生物にとっては、世界は水平だと思う。ウグイスがほーほけきょと鳴けば、ウグイスにとって世界の全てを表現する。なぜなら世界が水平だからだ。 

 人間はこの世界に傾きをつける。  

文化文明によってこの角度に差がある。だいたい角度が急であるほうが文明的だとされる。この世界は進歩しているなんていう進歩史観は、世界が傾いているという世界観を助長し、その社会の構成員のエネルギーを引き出すためのイデオロギーとなるだろう。 
 近代において西洋が強烈な存在感で世界を席巻したのは、この世界観に傾斜をつけるという、この人間特有の認識を社会全体として強調してきたからではないかなと思う。さらに言うと、日本の明治維新が成功したのも、当時の日本が世界観に西洋並の傾斜をつけるということが出来たからだと思う。なぜ出来たのか? 桜がキレイだとか、人間がまじめだとか、そんなものでは世界観に傾斜をつけることは出来ない。孔子、孟子、朱子、王陽明、このラインの中国思想が日本に「世界を傾ける」という智恵みたいなものを供給したのだと思う。  
世界観を傾けることで力を調達し、その世界は周りの世界を支配するという。支配する世界と支配される世界が現れて、そこでは支配される世界より支配する世界のほうが価値が高いような感じがしてしまう。アフリカよりもヨーロッパの方が価値があると考えてしまうのと同じだ。しかし世界観の傾きによって結局価値なるものが配分されるとするなら、その価値なるものは本当に貴重なものなのかと考える余地はあるよ。 
そしてさらに言うなら、現代の先進国はその成長率を鈍化させている。すなわち世界観の傾斜が緩やかになっている。世界観の傾斜を急にすることによって、西洋世界は多数の植民地を獲得したということを思い出して欲しい。先進国の成長率の鈍化というのは、大きい意味での価値の転倒にもなりえるのではないか。  

無理に難しい話をしているわけではないのだけれど、ちょっと分かりにくいか。例えば本居宣長が「さかしら」なんて言ったのは水平社会観の日本に傾きをつけるんじゃない、なんていうことではないか。