十八史略がどれくらいインパクトがあるかっていうのを書いていきたい。書き下し文だと、ちょっと難しい感じがするし、完全翻訳だと味がなくなるしで、書き下し文と翻訳文の中間の感じで、十八史略の名場面を表現していきたいと思う。分かりやすいように、人名は『』で、地名は「」で書いていく。 

「魏」、「韓」を討つ。韓、救いを「斉」に請う。斉、『田忌』をして将となし、韓を救わせる。

魏の将軍『龐涓ほうけん』、かつて『孫臏そんひん』と共に兵法を学ぶ。

龐涓、魏の将軍となり、自ら孫臏に及ばないと悟り、策略を用いてその孫臏の両足を断つ。

斉の士、魏に至り、密かに孫臏を担いで帰る。

ここにいたりて孫臏、斉の軍師となり、直ちに魏におもむく。

孫臏、斉軍を率いて魏に入る。

まず10万のかまどを造り煙をあげる。翌日に5万のかまどを作り、その翌日に2万のかまどを作らせる。

龐涓(ほうけん)は喜び言う。

「私は最初から斉軍の怯懦なことを知っていた。斉軍の魏の地に入るこ3日にして、士卒の逃ぐること半ばを過ぎた」 

龐涓、魏軍を率いて斉軍を追撃し、暮れにまさに「馬陵ばりょう」に至る。馬陵、道狭く木々多し。孫臏、伏兵をおく。さらに大木を削り、白くして書いて言う     

「龐涓、この木の下に死す」
                                                斉軍の強弓をよく射る者を多数この木の傍らに伏させ、暮れにこの木のそばに明かりが灯るのを待ち伏せさせる。

龐涓、はたして夜、この木の下に至り、白書を見て、明かりをつけ何が書いてあるかと、この木を照らさせた。

万の矢が放たれた。魏の軍、大いに乱れ散り散りになり、龐涓、「我、孫臏の名をなさしめたのみ」といい、自ら首を切りて死す。斉、大いに魏の軍を破り、太子『申』を虜にす。 



孫臏とは全くの天才というわけでもない。そこがいい。人々が孫臏なる人物を高みに押し上げようという、歴史の息遣いをまざまざと感じる。 


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