歴史って、結局は時間の流れに強弱をつけることだと思う。                                  はっきりとした強弱をつけて世界を認識するというのは、当たり前のように思うかもしれないが、じつはこれ当たり前ではない。何らかの知的訓練が必要だ。しまりのない話をだらだらするなんていう人は現代日本にもかなりの割合で存在する。実際に私の職場のおじさんの一人は、昨日食べた夕食のハンバーグの付け合せのレタスの枚数まで報告してくれるから。                                                        この世界の認識に強弱をつけて、世界を体系として認識するというのは中国戦国に始まったと思う。戦国時代が秦の始皇帝によって統一されると、世界認識に強弱をつける必要もなくなってきただろう。世界は全て秦なのだから。しかしここからが中国の驚くべきところなのだが、世界に強弱をつける必要がなくなったら、時間に強弱をつけようとするんだよね。その一つの完成形態が十八史略だと思う。                               中国戦国時代のあの7国が200年以上にわたって、まったくギリギリの総力戦を戦ったことの厚みが、中国の歴史の存在というものにつながっているのではないか。                                      このような意味で歴史の重みというのはあると思う。ローマ帝国は崩壊したらもうそれで復活しなかった。しかし同時代の前漢後漢の帝国は、400年の時を越えて唐の帝国として継続性がある。やはりこの違いというのは、世界の認識を時間の認識に転換することのできた、なんらかの偉大さの結果ではないのかな。               私、英雄史観というものはあまり好きではない。特別の天才が徒手空拳で世界を変えるなんてありえない。底の浅い歴史主義というのは英雄史観に落ち込む。しかし本当の歴史主義というものは、人々の想いが一人の人間をはるか高みに押し上げるという形態をとる。                                                                                                               十八史略には本当の歴史主義ある。