顔淵死す。ああ、天、吾を亡ぼせり。天、吾を亡ぼせりと

(先進第十一 271)


顔淵は孔子の弟子なのですが、その岩淵が死んだ時の孔子の悲しみがぐっと伝わってきます。
論語は言葉を繰り返して意味を強調するという技を使います。これは言葉を大事にする論語において効果抜群です。

論語そのままを読んでみてわかることは、少ない言葉で多くのことを語るという姿勢がいいです。近代文学なんてものは、どんな名著でも、多くの言葉で多くを語るというのがあたりまえです。ネットにおいては、多くの言葉で内容は貧困なんてことはざらです。

誰もが、饒舌は寡黙より何かを伝えられると考えてしまいます。どうしても「一言多く」なってしまうのです。でも論語は違います。

子、仲弓をいう。いわく、り牛の子、赤くして且つ角よくば、用うることなからんと欲するといえども、山川これを捨てんやと。

仲弓というのは孔子の弟子なんですが、親が犯罪者で、仲弓自体は人格が立派なのに親の事で他人にぐだぐだ言われるわけです。しかし、そんな背景説明みたいなものは論語においてざっくり削除です。ただ、

仲弓をいう。

これだけ。
り牛というのは、角が曲がって祭祀において役に立たない牛。でもそんな牛の子供がもし立派な牛だったら、山の神や川の神は祭祀のときに、その立派な牛を親がダメ牛だったからといって拒否はしないだろう。
と、ここまで。
普通は続けたくなりますよね、
「だからおまえら、親がダメ親だったからといって、なんとかかんとか・・・」
しかし、そういう一言多いところはいっさい削除。

論語は言葉を繰り返して意味を強調するという技を使います。これは言葉を大事にする論語において効果抜群です。



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