韓非子って、興味のあるヤツもそういないとは思う。中国の古典ってあんまりかっこいい感じもしない。私も若いころは、ニーチェとかサルトルとかカミュとか、そんなものを読んでいた。なんだかそっちの西洋哲学っぽいほうが、かっこいいような、かっこいいから真実に近いだろうてきな考えだったんだよね。間違っていた。韓非子や孟子やプラトンのほうが、近代西洋哲学よりよっぽどリアルで重厚だった。                                 で、韓非子なんだけど、この韓非子の中には進歩史観というべきものがあるのには驚いた。韓非子は孔子や墨子を批判する。孔子は古代の帝王、堯舜を賛美して、現代の君主もこの堯舜を目指すべきだなんて喧伝するのだけれど、韓非子は進歩史観を使って、この孔子の古代賛美を真っ向否定する。                      そもそも進歩史観というのは特殊な時代状況の特殊な精神状態だと個人的には思う。実際、あらゆるものが時間と共に進化するというわけではない。エントロピーは時間と共に拡大するわけで、進歩史観と同時に退化史観なるものも十分成り立ち得るとは思う。                                               近代以降、進歩史観がメジャーだったけれども、この近代進歩史観を支えたのはテクノロジーと生物学だっただろう。テクノロジーはエネルギーの効率利用というものを積み上げてきたし、生物学は進化論を発見した。これがもしだよ、エネルギーの効率利用の限界が来たとしたら、近代進歩史観が進化論のみで支えられるかというと、おそらくムリだろう。すなわち近代以降において進化論とは                                     「進化論がないならば、それは発見されなければならない」                                 などという程度のものだと思う。                                                  私は別に進化論が悪いとか、そのようなことを言いたいわけではない。ただ、近現代と中国戦国末期が進歩史観を共有しているということ。私は恐ろしいんだよね。春秋戦国が結局どのような結末を迎えたかということは歴史の事実であって、あれと同じ結末がだよ、現代の世界にも用意されているとするなら、こんな恐ろしいことはないよ。