私は今まで戦国末期の法家というのは、法律万能みたいな、法律をきつく人民に押し付ければ人民もちゃんとやるだろうみたいな、ファシズムとシンクロする概念だと単純に思っていたけど、実際に韓非子を読んでみると違うよね。この辺が古代中国の奥の深いところだと思う。                                       法術というのだけれど、これは法と術に分かれるらしい。法というのは法律の事で、その国の人々に公平に法律を適用するということ。術というのは、国民に公平に法律を適用するための何らかの技術ということらしい。      ではその技術とは何か?                                                      大小さまざまな法をあまねく適用するための技術というものがかかれているのけれど、印象的なものを一つあげてみる。韓非子は君主が民間の価値観に国家の価値観を寄り添わせて、そのことによって民間の価値観を統率しろ、というんだよね。これなんて極めて現代的だろう。フーコーが精神医学の虚構性を指摘しようとしたことは、このことと裏表の関係にあるだろう。韓非子が表でフーコーが裏。                                 想像してみて欲しい。                                                       大手電機メーカー、まあ例えば日本電気に勤めているとする。40年勤めあげて、もう定年間近だ。日本電気に勤めているといっても若いころ働いていた現場というものはとっくに存在しない。工場の管理業務のようなところに回されて、日々ブルーカラーとの折衝だ。仕事自体はたいしたものではない。その給料に見合うものではないことは明らかだ。そして、定年ま間近の彼は何を思うだろうか。間違っても自分にはもっと何かが出来たなんて思わない。自分は何かをやり遂げつつあると思うだろう。もちろん実質的に何かをやり遂げつつあるわけではない。我慢はした。しかしそれは評価するほどのものではない。上司には我慢したけれども、下請けには威張っていただろう。実体がないのに実感がある。それはなぜなのか。もうぶっちゃけ言ってしまうと、国が日本電気という価値観体系を自らの中に取り込んで序列化しているからだ。このことは韓非子そのものだ。なぜこのような奇妙な情念が初老の心に宿るのかというと、韓非子によれば、これは国家が国民に法を守らせるための一つの術なんだろう。                                                                               韓非子の世界と現代は似ている。これは必然的なものでもあると思うし、さらに恐ろしいことでもあると思う。