カラスの例えなんだよね。                                                      「それ烏を馴らすものは、その羽を絶つ。その羽を絶たば、即ち必ず人をたのみて食らう。いずくんぞ馴れざるをえんや。その君主の臣をやしなうのもまた然り。臣をして君の録を利とせざるを得ず、上の名に服するをえざらしむ。それ君の録を利とし、上の名に服せば、いずくんぞ服せざるをえんや」                    結局思うのは、中国の春秋戦国って500年もあったから、斉の桓公の時代から秦の始皇帝までに社会的な発展というか堕落というか、まあそのようなものがあったと思う。韓非子のこのカラスの例え話の成立は、正直私なんかには特定は出来ないのだけれど、まず間違いなく戦国最末期以降だろう。                     このカラスをなれさせたいのならその翼を切れ、などという例えは、まさに現代日本のホワイトカラーの現状だろう。韓非子の烏の例えと、プラトンの以下の言説、                                     「そこでの言論というのは、主人に向かって同じ奴隷仲間のことを云々する言論なのです。しばしばその競争は生命をかけて争われることがあるのです。そしてこれらの全ての結果として彼らには緊張と鋭敏とが生まれるのです。主人に阿諛するにはいかなる言論によるべきかという知識が生まれるのです。とはいえ、これによって彼らの精神は矮小になり、また不正直となるのです。つまりそれは必然的に曲がったことをさせるからなのです。それというのは、まだ若くてやわらかい彼らの精神の上には大きな危険が投げかけられて、はなはだしい危惧を覚えさせるからなのであって、それは彼らには、正しさや真実を失うことなしには持ちこたえることが出来ないものなのです。そのために彼らは幾度も幾度も捻じ曲げられたり折りくじかれたれたりして、ついには少しも健全なところをもつことなしに子供から大人になってしまうのです。そしてそれを自分達は、智恵者になったとか一目おかれるような人物になったとか思っているわけなのです」                                    は同じものだ。                                                          現代に暮らす人間が現状世界が永遠に続くと考えているように、戦国の時代に暮らした古代中国の人々もこの戦国時代が永遠に続くと考えていただろう。しかし古代の中国において歴史的事実は当時の人々の期待とは異なった。戦国は秦によって統一され、すぐさま秦は崩壊し極度の社会的混乱の後、劉邦によって再統一された。戦国末期と現代世界の言説精神が一致している以上、現代のこの世界状況がいつまでも継続するというのはちょっと甘い考えのような気がする。別に世界が展開するなんていうことは個人的にはかまわないのだけれど、そのことによって起こる社会的混乱というのが怖い。現代の民主主義が最高のものだとは思わないが、新しい世界を招来するために人類が一度地獄を見るなんていうことも必要あるのかな。出来るだけ地獄なんてものは先送りした方がいい。だからこそ、私はこの民主主義の基礎を自ら掘り崩すようなことはすべきではないと考える。例えば、約束通り年金は満額以上払えみたいな考えなどは危険千万だ。無理をすれば払えるだろうけれどそれは民主主義の基礎を掘り崩すこととのバーターなのだということは理解しないといけない。