韓非子の内儲説にこのような言説がある。                                            「越王、呉を討たんことをはかる。人の死を軽んずるを欲するや、出でて怒った蛙を見て、すなわちこれがために敬礼す。従者曰く、なんぞこれを敬すると。王曰く、その気概有るがための故なりと。明年、自らの、頭をもって王に献ぜんことを請うもの、年に十余人なり。これによりてこれを観れば、これを誉むるは、もって人を殺すに足る」    このようなことは、功利主義的な人間には関係がない。自分がよければそれでいいというのは一つの考えでもあるし、私は別に功利主義を否定しようとも思わない。生まれて、よろしく人生を楽しんで、そして死んでいけばいいだろう。                                                                  私が問題にしたいのは、生まれたからには人のために何かをしたいという思想を持った人間だ。このような考えを持った人は一定数いて、そしてこのような人たちこそがこの世界の秩序を支えているのだと思う。人のために何かをしたい、ということは、言い換えると、身を殺して仁をなす、ということだろう。では仁とは何かというと、これがまた微妙な問題だ。仁とは明確には確定できないという、そのことを利用して、越王はこの仁をコントロールしようというわけだ。これは現代日本の過労死問題にもつながってくるだろう。韓非子とは君主が国をどのように統一的に治めるべきかということを書いてある言説体系であるから、越王が仁をコントロールするなんていうぶっちゃけた説話もでてくる。だが現実の世界はそうではない。全てが隠されてある。現代において推奨されている正義というものが普遍的な正義であるということは全く保障されていない。そして功利主義を拒否する人間は、自分の心の奥底から自分なりの正義をつかみ取る必要がある。正義は誰かが与えてくれるなんて考えるのが一番危ない。        越王勾践は世界を単純化することで、正義を自分の方に引き寄せようとする。