まあ徳富蘇峰が変節しようがどうしようが、ほとんどの人にはどうでもいいことだと思う。人間というのは変わるものだし、変わっていないなら成長していないなんていう論理だって成り立つ。変節しないのがいつもいいわけでもなく、変節するのがいつもいいわけではない。                                             しかし当然ながら長い人生で変わらないものという心の部分はあると思う。これがないというのなら、過去の自分と現在の自分との同一性が疑われてしまう。                                           徳富蘇峰の変わらないところというのは、日本の民衆に対する同情や愛だったと思う。「終戦後日記」における天皇制に対する発言も、民衆に対する同情の結果だろう。すなわち、愛すべき日本の民衆は集団としてこの世界で生き抜く訓練が足りない。だから天皇というアンカーが必要なのだという論理だ。日本というものがどのように一体感を保つべきかというのは、明治初期と昭和初期でそのコンセンサスは異なってくるだろう。だから徳富蘇峰の言説も遍歴するわけだ。日本の民衆が日本という一体感の中でそれぞれに愛すべき生活を営んで欲しいという大なる仁義の前では、時代の変化による個人の哲学的変節などというものは、ことさら非難するほどの問題ではないと思う。                                                                  語っていることがバラバラだからといって、直ちに間違っているというわけではない。孟子だって言っていることはバラバラだ。しかし孟子には勝手な放言の向こうに何らかの孟子なりの確信があるよ。蘇峰も同じではないかな。