哲学とは何かと問われたら、私なら、この世界の秩序はいかにあるのかを考える学問だ、と答える。もしだよ、哲学が「この世界は如何にあるのか」を考えるものだとするなら、それなら数学、物理学、生物学で事足りる。別に哲学なんて余計な学問は必要ない。繰り返せば、哲学とは世界を知る学問ではなく、世界の秩序を知る学問だと私は考える。                                                                徳富蘇峰は「終戦後日記続編」の中でこのように言う。                                    「一人前の人間ということは、己れ自ら己れを支配する人間であらねばならぬ」                     さらにこのように乗せてくる。                                                   「もし銘銘が内省自反の力があって、我自ら我を支配する場合においては、少なくとも社会の秩序だけは、他力をからずして、自ら得べき筈である」                                                 哲学の匂いがしてきた。                                                      徳富蘇峰はさらにいう。                                                      明治以降は教育が人間教育から形式教育に移行した。形式教育なるものは人間を全く物体として扱う。別言すれば、一切のことは法に任せて、人には義務もなければ、責任もないものとした。                     これならば、戦前も現代も変わるところがない。                                        秩序に対する意識がなければ、言い換えるのなら、哲学がない世界ではどのようなことが起こるのか。戦前においては日本は総力戦を呼号したけれども、人間に義務もなければ責任もないなんていう状況では総力戦を戦いきれるはずもない。太平洋戦争は全くの大惨敗だった。さらに現代においてはどうだろうか。ここ何年かにおける日銀の異次元金融緩和というのは、日本の無義務無責任体制の一つの結果だと私は思う。現代日本には哲学がない。言い換えるなら、規律とか秩序というものは前提なしに与えられているものだと考えている。ヘリコプターマネーなどという考え方は、規律が無制限に与えられているという楽観を突き詰めたものだろう。日銀もさすがに前回の会合でこのままではヤバイと思ったのか、方針転換の意思表示はしている。しかしこんなものは、危なそうだから立ち止まったというレベルの話で、そもそもの哲学がないのだからトータルで何とかなるというものでもないだろう。                                                                                                                                            徳富蘇峰はいつか再評価される時が来るだろうと思う。