徳富蘇峰の「終戦後日記」を久しぶりに読んでみたけれど、本当にたいしたものだと思う。徳富蘇峰は明治大正昭和を生き抜いた近代日本を代表する大言論人だったのだけれど、現在文庫版はほとんどか絶版で、手軽に徳富蘇峰を読めるという状況にはない。個人的には徳富蘇峰とは福沢諭吉と同列といってもいいぐらいの思想のリアルさ、論理の切れ味というのがあると思うのだけれど、残念ながらあの大東亜戦争に加担したというマイナスイメージが大きすぎで、正当に評価されていないというのが現状だと思う。                              ひとつ徳富蘇峰の論理の切れ味というものを紹介してみよう。最近憲法9条改正についての議論が起こっている。戦争の手段を放棄すれば戦争が起きないとすればこんないい話はないとは思うのだけれど、物事をそんなに簡単に考えていいのかという不安は残る。甘えと猜疑の入り混じる憲法9条をめぐる論議を戦後間もなく徳富蘇峰はこのように書きなぐった。                                                     「武力を排除したる文化国というものが、果たして出来得べしとすれば、それは今後における、新たなる試験というのほかはあるまい。ここまでには世界の歴史に、左様なれいは、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかることを平気で、朝飯前の仕事のごとく、言いなしている日本の有識階級は、実に驚き入りたる肝っ玉の持ち主といわねばならぬ。これは大胆でもなければ、豪胆でもない。全く彼らの軽佻浮薄の浮動性が、彼らをかりて、ここに至らしめたるものというの外はあるまい」                                            戦後の昭和においては、戦争放棄が平和に直結するなんていうのが真理に思えた時間が確かにあった。経済成長が戦後の正当性を保障するという、そういうことだったと思う。バブルが崩壊して経済成長が失われると、戦後のうそ臭さというのがはっきりし始めてしまった。前回の都知事選で鳥越という戦後リベラル候補の言葉の力のなさにそのことははっきり現れただろう。自信ありげに何かを語られるとつい信じてしまうというのは、弱っている時にありがちな精神現象だ。昭和というのは結局戦争に負けて自信喪失の時代だったと思う。不安だったから、自信ありげに戦争を放棄すれば平和になるという言説が広範囲に受け入れられたのだろう。確かに戦後リベラルの言説が間違いであったということは証明されてはいない。だから鳥越なんとかという人物が都知事選にも出るのだろう。しかし私のこの違和感はなんなのだろうか。結局、                                          「武力を排除したる文化国というものが、果たして出来得べしとすれば、それは今後における、新たなる試験というのほかはあるまい。ここまでには世界の歴史に、左様なれいは、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかることを平気で、朝飯前の仕事のごとく、言いなしている日本の有識階級は、実に驚き入りたる肝っ玉の持ち主といわねばならぬ」                                                          なんていう、徳富蘇峰のざっくばらんなパロールに行き着くのではないだろうか。