学問のすすめ (まんがで読破) [ 福沢諭吉 ]
学問のすすめ (まんがで読破) [ 福沢諭吉 ]



福沢諭吉は「惑溺」という語を多用する。

福沢諭吉が惑溺の例としてあげていたものに、江戸時代に大奥とかでいかにすれば将軍のお気に入りの女性になれるかなどという政治的な手練手管に巧みになってしまう、なんていうのがあった。

福沢の表現した、陰険きわまる御殿女中の社会とは以下のようなものだった。

「そもそも大名御殿の大略を言えば、無識無学の婦女子群居して、無知無徳の一主人に仕え、勉強をもって褒められるものでもなく、怠惰によって罰せられるものでもなく、主張して叱られることもあり、主張せずして叱られることもあり、言うもよし、言わざるもよし、騙すのも悪し、騙さないのも悪し、ただ臨機応変に主人の寵愛を期待するのみ。
その様はあたかも的なきを射るかのようで、当たらないからといって下手というわけでもなく、当たったからといって上手というわけでもない。まさにこれを人間世界外の別天地といえなくなくもない。
このような世界の内側にいれば、喜怒哀楽の心情は他の人間世界とは異ならざるを得ない。たまたま友人に立身するものがあれば、その立身の方法を学ぶことができないので、ただ友人をうらやむのみ。これをうらやみすぎて、これを妬むのみ。うらやんだり妬んだり、このようなことに忙しいならば、やるべきことをやる時間などというものが残るだろうか?」                                                                                                                                 

このように、惑溺とはなんとなくは分かるのだけれどはっきりとは分からないというもの。夢と現実と何が違うのか明確には説明できないみたいなところがある。
丸山真男にも福沢諭吉の惑溺についての評論があったけれども、これを読んでみても惑溺を明確に理解するにはいたらない。                                                                      

惑溺とはなんとなく分かるのだけど明確に理解するには至らないなんていうのは、そもそも何故なのだろうか。                                                                       分かりやすく言ってしまうと、それは最初から私たちに 

「大奥で将軍のお気に入りの女性になるためには、ある程度の政治的な巧みさは必要だろう」             

なんていう規範なき功利主義の考えがあるからだ。その規範のなさがものごとの意味を曇らせる。                                                                                   王陽明の伝習録にこのような言説がある。                                          

「これを物を弄びて志を失うというは、尚お猶おもって不可となすか」
                                                                                                 物を弄びて志を失う ああ、これだ。惑溺とはこれだ。志を失うことによって大人になったってくだらないだけだ。  
福沢諭吉は明確に理解して惑溺という言葉を使っている。あれは本当に面白いオヤジだ。



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