プラトンと孔子というのは、こんなことを言うとなんなのだけれど、言っていることにそう差がないなと思う。
その中での最大の共通点というのは、両者とも社会の起源において理想国家的なものを設定しているということだ。

プラトンは「国家」という本の中で、人間の社会は名誉制、寡頭制、民主制、僭主制度、と移行していくと語っているが、名誉制の前段階として哲人制というものを設定した。
孔子の場合はもっと分かりやすい。理想の社会ははるか昔、尭、舜(ぎょう しゅん)の時代だといってはばからない。孔子のいうはるか昔といったって、孔子じたいが古代人かなのだから、尭、舜なんていうのは伝説だよ。

何故プラトンも孔子も過去に理想社会を設定したのか? さらに言うと、過去に理想社会を設定したプラトンと孔子の言説が世界の西と東でそのメインストリームとして生き残っているのかということ。 現代において過去に理想世界を設定すると、必然的に現代は堕落した世界であるということになる。

この世界観にたいして、21世紀の現代は過去に理想世界を設定していない。 21世紀の現代は過去に理想世界を設定を拒否して、世界は進歩発展するものだとしている。 おそらく古代ギリシャ世界や中国の春秋戦国時代にも、過去に理想世界を設定せず世界は進歩発展するという言説が存在しただろう。そのような言説は滅び、プラトンや孔子のような言説が生き残ったことを、私たちはどのように考えればいいのだろうか。

プラトンや孔子を聖人視して人類の進歩というイデオロギーが間違っているなんていう簡単な論理は採用したくない。おそらく、人類は進歩するという簡単な論理の中に、なんらかの罠があるのだと思う。

ではその罠とはいかなるものか? 

それはフーコーの言う過剰なる権力というものだろし、ドストエフスキーの大審問官でもあるだろう。まあ、フーコーやドストエフスキーを持ち出すまでもなく、以下のプラトンの言説にそれはぴったりと表現されている。

「そこでの言論というのは、主人に向かって同じ奴隷仲間のことを云々する言論なのです。しばしばその競争は生命をかけて争われることがあるのです。そしてこれらの全ての結果として彼らには緊張と鋭敏とが生まれるのです。主人に阿諛するにはいかなる言論によるべきかという知識が生まれるのです。とはいえ、これによって彼らの精神は矮小になり、また不正直となるのです。つまりそれは必然的に曲がったことをさせるからなのです。それというのは、まだ若くてやわらかい彼らの精神の上には大きな危険が投げかけられて、はなはだしい危惧を覚えさせるからなのであって、それは彼らには、正しさや真実を失うことなしには持ちこたえることが出来ないものなのです。そのために彼らは幾度も幾度も捻じ曲げられたり折りくじかれたれたりして、ついには少しも健全なところをもつことなしに子供から大人になってしまうのです。そしてそれを自分達は、智恵者になったとか一目おかれるような人物になったとか思っているわけなのです」


関連記事
プラトン「国家」詳細レビュー