ダーウィンの進化論というのがある。近代においてその言説は絶大な力を発揮して、おそらく今も発揮し続けているだろう。
ダーウィンの進化論において、種はゆっくりと進化するとされている。ここで大事なのは「ゆっくり」ということと「進化する」ということの二つの意味内容だ。近代以降、この二つの意味内容を支える様々な科学的言説が存在する。
よく教科書なんかで紹介されるのは、南の島の鳥のくちばしは、その目的に合わせてちょっとづつ変化しているでしょうというもの。ちょっとづつというのが「ゆっくり」に対応していて、変化というのが「進化」に対応している。

正直、この世界がゆっくり進化していると信じたい人たちには、南の島の鳥たちというのはまさに真理を体現する天使みたいなものだったろう。

しかしこの世界は本当に「ゆっくり」と「進歩」しているのだろうか。確かに生産性とか科学とかそのような面では進歩している。2500年前の人類の経済状態より現代の方がはるかにすばらしいだろう。ただ、文学においてはあまり進歩していない。いつまでたってもあの大バブル時代の日経平均株価を越えられない日本経済みたいなもので、プラトンや孔子を越える思想家というものが存在したとも思えない。

私という人間はこだわりというものなんてなくて、いいものはいいと正直に言いたいと日頃から思っている。子供のころから本が好きで、もう40年以上も読み続けている。私なんかが40年本を読んだからといって別にたいしたものでもないとは思うが、ただゆずれないラインというものは形成されてくる。

思うのは、いくら現代の最先端の哲学といっても、結局それらはプラトンや孔子の脚注にすぎないのではないかということ。
例えばミッシェル・フーコーってすごい哲学者だった。ただ彼は結局プラトンのすばらしい脚注を書いたに過ぎないとは思う。これはフーコーを貶しているのではなく、全くその逆。
プラトンとか孔子とかはあの言説群をどこから引っ張ってきたのか。不思議でしょうがない。

フーコー哲学がどのようにプラトンの脚注でであるのかなんていうことは、また集中力のある時にでも書いてみたいと思う。

進化論に戻る。この世界というのはゆっくりと進化するという原理になっているのだろうか。本当はある時点においては急激に堕落するという性質を持っているのではないか。
こんなことは正直分からない。ただ、南の島の鳥のくちばしの形でこの世界の仕組みが分かるというものでもないと思う。