北宋の儒学者 程 頤(てい い)はその著書の中で

天にあれば命といい、人にあれば性という

と語っているらしい。これは天には命という巨大な善が存在していて、人間個々には天から小さな善が賦与されていて、これは性と名づけられているという意味だろう。これは孟子の性善説を理論的に展開したもだね。

この程 頤の言説の革命的なところは、それが一君万民思想だということ。中国の長い歴史の中で唐と宋の間に大きな断絶があるというのはよく言われる。何が違うかというと、唐は貴族制で宋以降は絶対王制だったということ。貴族制も絶対王制もたいして違わないと感じるかもしれないけれど、絶対王制のほうが民主制に近い。絶対王制の社会において王殺しが行われれば、その社会は理論上民主国家になるからだ。

ミネルバのふくろうは夕暮れに飛び立つのであって、程 頤が
「天にあれば命といい、人にあれば性という」
と語った時には、すでに宋という時代は、絶対王制の時代だったのだろう。歴史は進歩するなんていう観点からすればこれはすごいことであって、例えば日本ではっきりと絶対王政が現れたのは幕末から明治国家にかけてだと思うけど。

儒教というのは宋代において程 頤におけるように革新的な論理を提供した。儒教においては理と礼というのが二本柱なんだけれども、北宋の時代までは、理が整っていれば自然と礼も整うという考え方だったと思う。これが朱子以降逆転してきたのではないか。すなわち礼が整っているのだから理が整っているのだろうということ。これは恐ろしい逆転であって、プラトン的にいえば、

この世界において正義とは、正義だと多くの人に思われることが正義であって、その正義は本当の正義とずれているのではないのか。ソクラテス、本当の正義をたすけてやってくれ。

ということになるだろう。

相模原で19人の障害者を殺したやつがいるよね。そいつやそいつのやったことを支持するやつらの論理というのは結局、礼が整っていないヤツは理が整っていないのだろう、という逆転の論理、さらに言えば堕落の論理だ。彼らは真実を悟っていると考えているのだろうが、私からすればただかわいそうなだけだ。歴史の真実とはもっと力強いところにある。
すなわち

天にあれば命といい、人にあれば性という