久しぶりに「日本近代文学の起源」を読み返してみたのだけれど、やっぱりこの本はすごい。
第1章が「風景の発見」
第2章が「内面の発見」
第5章が「児童の発見」
となっていて、風景や個人の内面や子供というものは日本においては明治以降に発見されたものだという、意外な論理が展開されている。

私は一介の肉体労働者で、この「日本近代文学の起源」という本が日本文芸という知の体系の中でどのように位置づけられているのかなんていうとは全く分からないのだけれども、発表から36年経った現在において、私にとっての真実感覚が増していることを考慮に入れて、もうこの本は古典といっていいだろう。

風景や個人の内面や子供はなぜ発見されたのか? 
そもそも発見とか起源とかというと、何か大それた感じがする。それは何故かと言うと、私たちが「人類の進歩の結果、現代がある」と考えているからだ。進歩する世界において最初に何かを始めた人間は天才に違いないというわけだ。

しかしこのイメージは正しいのだろうか? 

江戸時代から明治国家に日本が進歩したと考えるのではなく、まあ例えばウランがエネルギーを放出してプルトニウムになるように、明治維新で日本はある種の価値の位相を下げたとするとどうだろうか?

大久保利通や伊藤博文は何らかのビジョンが在って徳川幕府を倒したのではなく、幕府を倒した勢いで漆黒の崖の向こうに飛び降りてみたら、そこに明治国家的なものがあったという、そういうことではないのか?
彼らは天才でもなんでもなく、ただ単に明治国家を発見したんだろう。明治国家が発見されたと同時に、風景や内面や児童が発見されたのだと思う。