プラトンの「ソクラテスの弁明」において、ソクラテスは知ったかぶりの自称知識人を論破してまわったという。そしてこの論破の根拠が無知の知というのだから、これだけでは何のことかわからない。

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【無知の知の意味とは?】


真理の体系なるものが存在するとする。真理の体系と全くの無知との中間には、様々な蓋然性のあやふやな知の体系的なものが存在することになるだろう。この蓋然性のあやふやな知の体系的なものをプラトンは「おもわく」と言った。

例えば三流ジャーナリストなんかが何かえらそうなことを語っているのを聞いたことはないだろうか? 何を語ろうが、それはそれでかまわないのだけれど、彼らの語ることは真理ではなく思惑であって、彼らは哲学者ではなく思惑愛好家だということ。おそらくそのようなことをソクラテスは指摘して回ったのだと思う。

同じようなことを福沢諭吉も言っていた。福沢諭吉は惑溺という言葉を使っていた。文明と無知との間にある奇妙な知の体系を惑溺といっていた。

ここで大事なのは真理や文明というのは究極には到達できないということ。真理に至ろうという魂の向上心を失うと、全ての知識体系はおもわくや惑溺になってしまう。魂の向上心のある人間、空間、国家にのみ、真理に向かって秩序付けられた知識体系の価値の濃淡というものが存在すると思う。

そのようなものが存在しなくなった時、民主主義は終わると思うよ。

分かりにくい話だったかもしれない。例えをひとつあげよう。

すまほゲーに課金することについての擁護の意見として、趣味にお金を使うことの価値の平等というのがあると思う。このような意見は魂の向上心を諦めた結果として成立するもので、民主主義を維持するためのエネルギーの枯渇だ。ゆるゆるの民主主義という自由の中ですまほゲー課金というものが存在しているわけで、あまりにばかげたことはほどほどにしたほうがいいと思う。明らかに「おもわく」や「惑溺」だと思われるようなインチキ知識体系には関わらないほうが賢明だろう。

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