この本は、今から100年ほど前のシュレーバーというドイツ人が自ら書いた強迫神経症の内的体験の記述だ。

まずほとんどの記録が狂人のたわごと。

神の声が聞こえるとか、
鳥が喋るとか、
意思に反してまぶたが下がってくるのは、小人の仕業だとか、
歯が痛くなるのは神の奇跡だとか、

まあこんな調子だね。
ところがこのシュレーバーなる人物はちょいちょい真理を語る。例えば、

神の全能に対する敵対党派の全体は、長い間「それで」党と自称していた。ありとあらゆる問いに対して「それで?」とだけ答えるのに慣れてしまっていたことに由来していた。これを人間流のものに翻訳するなら、「その瞬間にさえ快適なら、私は将来の事など全く思い悩まない」という意味であろう。

一生懸命語った後の、相手からの「だから?」というだけの返事にはイライラすることがある。このイライラ感をこれほど明確に表現した言説は記憶にない。
これは一番分かりやすい言説で、もう少し理解しにくい言説にはこのようなものがある。

より長い地上での生命の獲得、すなわち魂を他人に引き渡してしまうことを必然的な結果としてもたらすような、功名心と権勢欲を吹き込まれた激しい動向に対して、ただちに断固として完全に抵抗することができないという結果が生じてしまったのである。

この文章になると、日本語として明確にははんぜんとしていないし、その文章の微妙さを乗り越えても、この文章を理解できるか出来ないかは人によってそれぞれあると思う。
私なりに解説してみようと思う。
自分が社会的には認められていなくても、自分なりに充実して生きていたとする。しかし昔の友達と出会ったりしたときに、例えば年収が低いということで引け目を感じたりするということはありえる。なぜ今が充実しているのに引け目を感じたりするのか。突き詰めて考えると、この世界で永遠に生きようとしているからではないのか?

ではシュレーバーの言う、鳥が語るというのはどういうことだろうか。これぐらいになるとほとんど分からない。ウグイスはほうほけきょとしか鳴かない。しかしウグイスはほうほけきょで全てを語っているともいえる。それとかんけいあるのかな?いや分からない。全く分からない。

このようにシュレーバーの語る知覚と論理には、理解できるかできないかと言う点において濃淡がある。狂気と正気というのは明確に分かれているのではなく、その間には何ものかにつくらりたグレーゾーンが存在する。
この本を読みながら、狂気と正気の間にあるグレーゾーンをギリギリまでさかのぼろうとするなら、本当に狂気に引きずりこまれそうになる。

狂気というのはまさにすぐそこにある。