人間の苦難の道を2つに集約して、ヴォリンガーは示す。

はるか原始において、人間は世界の中に投げ出されてあった。その起源において、人間は世界に対して恐怖しただろう。
そんな恐怖に満ちた世界からどのように抜け出すか。洗練された言い方をするなら自らの世界観とリアルな世界とをどのように一致させるか、ということが問題になってくるだろう。

自らの世界観とリアルな世界とをどのように一致させるか?

これは結構な難問だ。現代人といえども簡単に失敗する。「二次元の女の子は俺の嫁」とか言っているのも失敗の典型だろう。

歴史上さまざまな努力があったと思う。この人間の苦難の道を2つに集約して、ヴォリンガーは示す。人格主義と個人主義。現代においても、人格主義というのは多数派だと思う。人格主義というのは要するに自分の中の合理的な考えと世界の中の合理的なあり方を一致させようということである。円満な人格を持ったものが理想の世界観を得るという。ヨーロッパで言えば古典主義。東洋で言えば孔孟、朱子学というのもこの人格主義だろう。この人格主義の欠点を言うなら、「つまらない」ということ。あまりの凡庸さに、油断すると生きることの意味を見失ってしまうということもかなりの確率でありえる。

もう一つの道、個人主義。ヨーロッパで言えばゴシック。東洋で言えばなんだろうか、陽明学か。個人主義の起源は、世界が自分の中にもあると考えること。これだけだと分かりにくいかもしれないのだが、世界存在のミニチュア版みたいなものが自分の精神の中にも存在すると考えることと言えば少しは分かりやすくなったか。個人主義は神秘主義として始まる。神秘主義を現代的に言えばロマン主義ということだろう。

ここまでの論理を日本の近代に当てはめてみる。明治国家というのは人格主義だったと思う。美濃部達吉が提唱した天皇機関説は、明治国家を有機的な統一体とみなすことで、日本国家の人格主義を標榜している。これに対して明治国家にもマイナーながら個人主義の流れはあった。昭和期個人主義の代表的な人物は、石原莞爾、井上日召、北一輝、ということになるだろう。神秘主義とは個人主義から出発しながら、直ちに個性を否定せよと教える。自分の中にミニチュアの世界を認識した刹那、自分を世界と合一させようとする。北一輝が個人主義から出発して、日本改造法案大綱の歴史的なものを書いた後、結局晩年北一輝が法華経を唱えてばかりいたのは、この神秘主義の一つの必然だったのだろうと思う。

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