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日本のひきこもり人口は、自分の趣味の時のみ外出する準ひきこもりを含めると100万人とも言われている。私はこの人たちの気持ちが分からないでもない。実際私も20年ほど前、20代半ばのころ2年ほどひきこもり的な生活を送っていた。アパートを借りて一人暮らしをしていたので、完全にひきこもることは出来なかったが、月5万円ほどアルバイトをして残りの時間はずっと本を読んでいた。

何でそんなことをしていたのかと今から考えてみると、社会にでてフルに働くのが怖かったんだよね。なんだか自分の魂みたいなもの、最後の言葉みたいなものを奪われてしまうような気がして。いまひきこもっている人たちも、病気だとか明らかな理由がない限りはあの時の自分と同じなのではないかと思う。

あの時の私の予感、すなわち社会にでてフルに働くようになれば自分の最後の言葉が奪われてしまうという予感が全くの妄想であったのかというと、そうともいえないだろう。むしろ当時の私の予感はかなり真理をついていたと思う。

ラカンは、人間は去勢されなければ社会システムに参加することすら出来ない、と言う。
去勢などという言葉は言い過ぎだと思うけれども、まあだいたいラカンの言うようにこの社会システムは運用されている。去勢までは行かないだろうけれど、多くの人々は自分の能力に相応しい収入を得るために心を縛られて働いている。縛られていた心を開放する時間が遊びなわけだ。野球観戦、祭り、クラブ、パチンコ、ソーシャルゲーム、このような場では人間関係がシャッフルされて、心の開放感が得られるという仕組みだろう。
まあ、仕事と遊びを明確に分けることが成熟した大人のたしなみなのだろう。

ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。

ひきこもって苦しんでいる人間の方がもっとまじめに人生について考えそして死んでいくだろう。自分ガ何のために生まれてきたのかは分からないのだけれども、遊ぶために生まれてきたのではないことは分かる。
そもそも去勢されなければ参加できないその社会システムとは何なのか、そこを問わなければならない。

漫画の「カイジ」のなかに「鉄骨わたり」のエピソードがある。カイジは落ちたら死ぬ細くて長い鉄骨の橋をほとんどわたり終えようとしていた。もうすぐそこの扉がゴールだ。しかしゴールの上方を見上げると紳士淑女たちがニヤニヤしながらカイジを見下ろしている。違和感を覚えたカイジは、この扉はフェイクで本当のゴールは別にあるのではないかと考えた。その瞬間に見えたんだ、カイジのすぐ横にほとんど透明のガラスの階段が。

ガラスの階段、いったん気がつけばそれは明らかに見える。

この社会ステムなるものはのっぺりして巨大で、一見理解するための取っ掛かりが無いように見える。だがはたして本当にそうだろうか。いったん気がつけば明らかに見えるようになるガラスの階段のようなものが取り付けられてはいないのだろうか。