私がいかに馬鹿げた暇人でも、山城むつみ「ドストエフスキー」を通読することは出来なかった。文庫本で600ページあるこの本を最初の100ページと後パラパラと100ページ読んでこの書評を書く。

ドストエフスキーのすばらしさというのは誰もが一読すれば明らかに分かるレベルにある。その長編は登場人物同士の裸の魂のぶつかり合い、そしてその連続だ。これがあまりにも衝撃的。現代日本において裸の魂のぶつかり合いの言説なんていうものはほとんどない。誰もが何かに寄りかかって発言するというのが普通だと思う。

一つ例をだそう。

ある有名な予備校講師がこのような発言をした。
「高校で勉強を頑張ったヤツは、帝国大学や私立大学上位校にいく。Fラン大学に行ったヤツは勉強もせずに遊んでばかりでどうしようもない。親にお金を出してもらって大学まで行って遊ぶようなヤツは高校卒で働けばいい」
この言説はどうだろう。
まずいえるのはこの言説はどうしようもなくポジショントークだということ。そもそも現代の日本で高卒にまともな就職先なんてない。そしてこの講師にはFラン大学に行ってまじめに勉強するヤツなんているわけないという前提がある。結局いい大学に行っていい新卒カードをゲットすることが頭のいいヤツのやることだというわけ。そのためには予備校で勉強しましょうというポジショントーク。さらに言えば、この予備校教師は帝国大学を頂点とする大学教育ヒエラルキーに寄りかかり、寄りかかるものがない学生をただ攻撃しているだけだ。こんな有利なことはない。
現代日本の多くの言説はこの程度のもので、互いが何らかの知のヒエラルキーに寄りかかり同意したり排除したりしているだけだ。
このような言説体系をバフーチンはモノローグ世界と言った。
これに対してドストエフスキーの登場人物たちは、このような知のヒエラルキーに寄りかかって発言したりはしない。自らが掴み取った思想を互いにぶつけ合う。このような言説体系をバフーチンはポリフォニー世界と言った。

ここまでいいだろうか? 

山城むつみはその「ドストエフスキー」という本の序章でこのように言う。
言葉が無駄に多いので一部分私がかってに要約する。
アリョーシャの染み透る言葉はイワンの内的会話に入り込む。イワンは「殺したのは俺だ」という言葉と「殺したのは俺ではない」という言葉とのあいだに分裂しているが、アリョーシャによってイワンの言葉の分裂解消の可能性が存在するようになる。しかしイワンはアリョーシャの染み透る言葉に反発を感じずにはいられない。

この解説は、もうすでにちょっとおかしいのではないのか。アリョーシャの言説はすでに権威的な前提になっていないか。イワンとアリョーシャは全く対等のはずだ。そこがカラマーゾフの兄弟の面白いところなのに、山城むつみによるとアリョーシャにすでに知の優位性というバイアスが与えられていることになっている。
あろうことか山城むつみは続けてこのようなことを言う。

イワンの反発は精神分析治療における患者の「抵抗」を連想させる。

いやそんなこと誰も連想しないよ。アリョーシャは精神分析学みたいな知のヒエラルキーに寄りかかって、寄りかかるもののないイワンを批判したというのだろうか。そんなことはない。そんなドストエフスキーの解釈ではカラマーゾフの兄弟の面白さは分からないだろう。何でそんな呪われたような読み方をしてしまうのか。

さらに山城むつみはこういう。

バフチン自身はフロイト主義に批判的だったが、彼のドストエフスキー読解はフロイトの臨床理論と構造的に合致しているのである。

めちゃくちゃだ。
結局山城むつみなる人物は、ドストエフスキーのポリフォニー世界をこのモノローグ世界に回収しようとしているのだろう。この世界はあらゆるものを回収して大きくなってきた。だからドストエフスキーも簡単に回収できると考えたのだろう。
これは私の善意の考えであって、そうでなければ山城なる人物にはもう文章は書かないでと言いたい。そもそも本当にバフーチンを彼は読んだのか。



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