ニーチェを理解するためのキーワードみたいなものがあって、超人、永劫回帰、ニヒリズム、あと高山樗牛はニーチェを個人主義だと言っていた。そもそもこのキーワードたちは何かの論理で一つにつながるものなんだろうか。最近はニーチェの言葉みたいな本が出版されたりする。この手の本をどんな人が買っているのかは分からないのだけれど、現代に疲れた人々がニーチェの言葉の断片を読んで癒された気持ちになるということもあるのだろうか。

ここで私のニーチェに対する考えを書きたい。

「悦ばしき知識」の断章109に
「世界全体の性格は、永遠にカオスである。そこに必然がないからではなく、秩序が、分節が、形式が、美が、叡智がないからである」
とある。
世界があって、その世界を認識する私たち人間がいる。人間が行うこの世界に対する認識の正確さは何かによって無条件に保障されているのだろうか。人間のみをエコヒイキしてくれる絶対的な神がいない限りそんなことはありえない。私たち人間は世界を秩序化や分節化することによって、それぞれの時代にそれぞれの世界観を体感しているにすぎない。人間が抱く脆い世界観の向こう側に、岩盤としての世界があるとニーチェは言っているのだと思う。

これは別に難しい話でもなんでもない。坂口安吾の「文学のふるさと」にこのような話がある。
「晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家があるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば親子共倒れ状態になるばかりなので、むしろ育たないことが幸福であろうという考えで、生まれた子を殺して、石油缶だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
芥川は、いったい、こんなことが本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、といい、芥川があまりにぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
さて、農民作家はこの動かしがたい事実を残して、芥川の書斎から立ち去ったのですが、この客が立ち去ると芥川は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。
ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを越えたものであります。子を殺す話がモラルを越えているという意味ではありません。とにかく一つの話があって、大地に根の下りた生活があって、芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。」

結局ニーチェと坂口安吾は同じことを言っているのではないか。世界の認識のその向こうには、リアルな世界のまさにその岩盤があるという。ニーチェが、ヨーロッパを代表するその天才が、自らの狂気と引き換えにその世界の岩盤に到達したということ。坂口安吾という日本でさえほとんど忘れ去られようとする作家があっさりと世界の岩盤に到達したということ。ニーチェと坂口安吾の違いと言うのはこのあたりにしかないのではないかと思う。


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