ミッシェル.フーコーは告白について、

「一般的にいって告白とは、ある人が支配や強制を受け取るといった力関係の中で生まれる本人自身に関する言説である」

と語っている。 

これはある。

日本にも昔、告白小説みたいなものが流行ったことがあって太宰治の「人間失格」なんていうのはその代表格だと思います。今、人間失格を読むと正直たいしたものではない。とにかくしんきくさい。あれを面白いなんていう人は太宰治と同じような社会的な支配と強制の圧迫を感じていると思っている人でしょう。
太宰治の面白さは同じ圧迫を共有できるなんていうものではすでになくて、言葉遣いの面白さだったりします。

1980年代くらいまでか、個人的に告白小説が面白いなんて感じていた時期がありました。告白することによって救われるような気持ちがしたのです。

最近は社会的な支配と強制というのがかなり薄くなってきたのではないか、別の言い方をすれば支配と強制が巧妙になってきたのではないかと思います。私の中学生の娘はクラスで一匹狼らしいです。親としては心配します。30年前の感覚では一匹狼なんていうのはクラスに1人か2人しか居ない。しかしよく話を聞いてみると、今の中学生はクラスの半分ぐらいが一匹狼。いわゆるスクールカーストに参加しているのはクラスの半分ぐらいしか居ないらしい。

なにそれ。スクールカースト意味ないじゃん。

告白小説が面白くなくなるわけです。支配と強制に参加しているものが告白してそしてそれを参加しているものが読んで、そんな循環が面白さの実感を醸成するのであって、一匹狼が群れのわびさびのしきたりを読んだとしても、それがつまらないのは当たり前でしょう。

時代はいい方向に流れつつある。古い言葉で言えば、社会は進歩するということ。進歩という言葉を使わず表現すれば、人間社会はその本性を現しつつあるということ。そういうことではないのかな。

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