フーコーの文体って、ホイジンガのそれのように身体にまとわりつくような感じですごくいいですよね。

「社交界学」なんていうものがありえるのですよね。
社交界をうまく渡っていくためには、
「言い回しに繊細さを、考え方には子供っぽさをこめること」
「極端に軽蔑するにせよ賞賛するにせよ、何も考えないこと」
「そこで交わされる言葉は、攻撃するか擁護するかのどちらかである事を自覚すること」
社交界では自身と自身の言葉を適正な距離に保つことが品格を生むのです。

このことは現代日本の様々なコミュニティーにおいても同じことでしょう。自分の実体と自分の発言(パロール)の距離を一定に保つことで、自身の品格や威厳を維持しようとする人は多いです。まあ、わたしの空気を読んでということでしょう。

このような人を見るとかわいそうになってくる。貴族とか華族とか社交界とか上流国民とか、この日本ではもう存在しないんですよ。自分とパロールの距離を取り品格ある振りをしようとしても、周りの人も表面的にはフォローしてくれることもあるでしょうが、心の底では誰にも相手にされていないということが十分ありえる時代にになってきたと思います。

ではどうするか?

自分と自分の言葉を出来るだけ密着させる。自分の言葉は自分であるという自覚。自分の心の底を覗き込むことによって、逆説的に他者を発見するということ。品格を得ることで自分自身を失うか、世間なるものを拒否することによって自身と他者を獲得するか、私は答えは明らかだと思いますけど。
フーコーが狂気について語る理由はなんなのでしょうか。究極的な他者とは狂人であるという。狂人にも狂人なりの論理があるのでしょうから、自分と自分の言葉とを密着させることさえできれば、狂人の論理世界にさえ入ることも可能だとフーコーは言いたいのではないでしょうか。
品格や威厳だなんていっていては、隣人の体験すら体験することは出来ない。当たり前の話なのです。