近代とはなんなのでしょうか。

何でもそうなのですが、何故とか何とか直接問うてしまうと、その答えはどうしても生臭くなってしまいます。スマートに考えたいのなら「いかにして」と問う、すなわちそのものの起源に遡って考えた方がいいと思います。

日本近代初期における一つの現象として「言文一致運動」というのがあります。その流れで二葉亭が浮雲を書いたのは有名です。話し言葉と書き言葉を一致させることが近代になるための何らかのスイッチであるらしいということはなんとなく分かるわけです。

この「死産される日本語.日本人」という本は、このなんとなくというところを実にうまく説明しています。二葉亭以前の日本もっと遡れば本居宣長以前の日本には、漢文、和漢混交文、擬古文、候文、歌文、俗語文、そして地方には地方のお国言葉などのさまざまな日本語的言語体系が重層的に、そしてその境目もあいまいに存在していました。言語体系の境目があいまいなわけですから、例えば日本と朝鮮との境目もあいまいであったであろうと思われます。人々はこの重層的に存在する言語体系群の中をさまざまに移動しながら生活していました。
明治以降の「言文一致運動」というものは、この日本語的言語体系を関東の話し言葉に一本化することによって、他との境界が明確な「日本語」ひいては明確な「日本」を創るものだったと言うわけです。

うまく説明してあります。なるほどと、世の中にはすばらしい説明能力を持った人がいるのだなと感心しました。

酒井直樹という人はこの明確な「日本」というものがあまり好きではないようです。確かに日本の境界をはっきりさせてしまうと人種差別的な現象が境界内で現れてきます。境界があるということに寄りかかり、境界の外にいる人たちを見下すような「日本人」が現れたりします。こんな日本人は私も見苦しいと思います。

さらに境界の内側の均一化された日本人に参加しなくてはいけないという息苦しさみたいなものもあるでしょう。明治以降は基本的に日本人の均一化の歴史だったと思いますが、太平洋戦争後とくに日本人の均一化は進んで、頭のいい人と自分で思う人は何で他人と自分が同じなんだ?と考えたりもするでしょう。

私は、近代とはパンドラの箱だと思うのです。いやなものがたくさんで出てきたかもしれないですが、一つだけ希望がある。

境界を明確化された日本は、その存在の意味を自分の中に探さなくてはいけないという宿命を背負ったと思います。そんな国の中で生きる私たちは、私たちの存在の中に生きる意味を見つける自由がもちろん与えられていますよね。この自由を重荷に思う人もいるかもしれませんが、私はこんなすばらしい自由は他にないと思います。

箱を空けたら嫌なものがたくさん出てきたからといって、近代から回れ右して引き返してはダメだ。もう帰るところなんてない。勇気を持って個々の日本人がこの自由を突き詰めて考えるなら、人種差別や蔓延するルサンチマンも解決可能なのではないかと私は考えます。


【中古】死産される日本語・日本人 / 酒井直樹
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