太平洋戦争って何で起こったのか不思議に思ったことはないでしょうか。第一次世界大戦の時のように、勝ちそうなほうに乗っておけばそれで十分だったのに。
よくある考えは、「当時の日本人は間違いを犯した。すなわちちょっと頭が足りなかった」というものです。しかしこの考えは違う。昭和初期に書かれたものは、今読んでも読むに耐えるものが多いです。彼らの頭がちょっと足りなかったなんて信じられない。
団塊ジュニアにとってのおじいさんとは、実際に太平洋戦争に行った人たちだと思いますが、彼らは頭が足りなかったでしょうか。事実は逆ではないでしょうか。彼らの人間としての重みのようなものから、現代の私達は世界にはどうにもならないことがあるということを悟るべきではないでしょうか。

社会の秩序はどのようにしてあるのか? ということを考えてみましょう。
私は昔トマス・アクイナスの神学大全というのを読んだことがあります。そこにあるのは美しい思想のカテドラル。ヨーロッパの中世において、秩序とははるか高みにある神から与えられたもうたものであり、その結果この世界は形式がみっしりと積み重なったものであるということなのでしょう。
近代においては、秩序の根源がもっと近いものになります。ヘーゲルにおいては市民社会の無秩序さは上は国家、下は家族によって制御されているとされました。この世界に秩序を与えるものが神から国家や家族に変換されています。この世界に意味を与えるのははるか遠くにある神ではなく、この世界に隣接する国家や家族なわけです。意味の根源は近くに引き寄せられました。マルクスは社会的下部構造が上部構造を決定する言いましたが、これも市民社会はその隣接する外部から秩序の根源が与えられているいうことなわけで、話の構造というのはヘーゲルと変わらないと思います。

日本も、大正まではこのような「秩序はこの世界に隣接する外部から与えられる」という近代国家だったとおもいます。ところが満州事変が起こり、日本はより合理的な国家を創る必要に迫られます。近代国家より合理的な国家とは何なのでしょうか。結果からいうと、今まで秩序というのは隣接する外部から与えられているという考えを、秩序というのは社会の内部から発生するという考えに転換するということです。

これは驚くべき転換なのです。

それまでの日本国家は形式的強制によって国民からそのエネルギーを吸い上げてきました。しかしこれからは国民の自由意志をコントロールすることによってより大きなエネルギーを調達しようというのです。例えば年金というものは戦中に制度化されました。これも老後のことは心配せず今を一生懸命戦ってくれという、国家による自由意志コントロールの一つの顕現だと思います。

秩序の根源が世界の外側にあるのではなく、世界の内側にあるというのが現代日本の真理です。これはきわめて重大なことで、現代日本においては生きる意味というのは自分の外側にあるのではなく、自分の内側にあるというとになります。倫理は自分の外にあるのではなく、自分の内にあるということです。このことは戦時中の日本人が勝ち取ったものであり、戦後の日本人がその記憶を抹消しようとしたとしても、もうすでに不可逆的なものなのです。

知識人という人たちがいました。戦後の知識人なる人たちは大なり小なりある種のピエロです。世界の外側から秩序の意味を大衆なるものに与えようというのですから。考え方が100年古いんだよね。生きる価値というのは誰かに教えてもらうものではなく、この世界に内在して実存するものなのです。