夏目漱石の作品群というのは普通、縦に読むと思うのです。三四郎、それから、門は三部作だとか、漱石は実験的な小説群をへて、道草、明暗という三人称客観の小説にいたったとか、縦に読むとはまあそんな意味です。ところが蓮實重彦は夏目漱石の小説群を横に読んでしまいます。主人公達はよく仰向けに寝るよねとか、雨とか池とかの水のイメージが多いよねとか、琴とかヴァイオリンとかの音色が聞こえるとそれは出会いの前兆だよねとか。

私なんてあらゆることを縦に考えるということに慣れてしまっているのでしょう。物事を水平に考えてしまうと、そこには歴史も時間もなくなってしまいますから。

よく考えると、漱石の作品群の主人公達は進歩とかないですよね。主人公達の職業は学生か公務員かニートです。ほとんど仕事なんかしていないし、庶民的な人との接点なんてものもありません。世間の中で宙吊りになっているような。そして夏目漱石の小説というのは、
「いつ賽がこぼれ落ちるかという宙吊りの状態に耐える言葉たちが綴りあげる、サスペンス豊かな物語なのだ」
ともいえるでしょう。
残酷な言い方をすると、ニートって最後どうなるのかな? みたいな事だと思います。

水平世界には気楽さ、恐ろしさみたいなものがあると思います。例えば水戸黄門が印籠を出すと悪者が平伏するわけです。お約束の気楽さ。しかしこの気楽さが一生続くのかと思うと、恐ろしいような気持ちにならないでしょうか。主人公が琴の調べを聞くと誰かと出会ったり、雨が降ると主人公は女性とどこかに閉じ込められたりとか、漱石の主人公達はお約束の世界にやんわりと閉じ込められています。お約束の世界に暮らしているがゆえに、たとえば「門」の宗助は友達の妻を奪ったがゆえにいじけて生活しなくてはいけないし、「こころ」の先生は男女の三角関係で友達が自殺したからといって、十何年後かに自分も自殺を予告する長い手紙を書いたりとかするのでしょう。

蓮實重彦の夏目漱石論は、漱石的世界を危うい水平世界だと喝破する事で一つの古典になったのだと思います。ただこの本を読むと眠くなります。現代人にとって水平世界というのは眠くなる世界ですから。そういえば漱石の主人公達もよく仰向けに寝てますよね。