凡庸な芸術家とは誰の事かというと、マキシム.デュ.カンです。マキシム.デュ.カンは19世紀半ばのフランス人で、いくつかの著書を残していて、フローベールの友人だったという人物です。まあ要するに普通の人なのです。「凡庸な芸術家の肖像」とはこのマキシム.デュ.カンがどのような物語世界に閉じ込められていたのかという話です。物語世界に閉じ込められて生きる事が「凡庸である」ということなわけです。

物語世界に閉じ込められる、なんてよく分からないだろうと思うので、分かりやすいようにわたしの個人的な経験を語ります。

私は今の会社で働いて20年ほどになります。15年ほど前、私の子供は保育園に行っていました。子供というのはよく病気をするのです。熱なんか出たりすると保育園にはいけなくなります。当時私たち夫婦は共働きで、子供が保育園に行けなくなると、まあどちらかが仕事を休まないといけないわけです。妻にも都合がありますから私が仕事を休むという事もありました。子供の都合で会社を休むとなると風当たりがきついのです。私より2歳ぐらい年下のやつが私のことを批判するわけです。男は仕事を一番大事にするべきで、子供の病気程度で仕事を休むべきではない、なんて感じです。
これが彼の物語世界。彼はこの物語を私に強制しようとするわけです。空気を読んでこの物語世界に参加しろというわけです。こんな物語に参加してしまうと私の子供が死んでしまうので、もちろんガン無視です。
あれから15年。私の子供は19歳になりました。私の年下の同僚は独身で仕事を頑張っています。休憩時間なんかには子供の話がでるのです。君の子供は大学とか行くの?みたいな。年下の同僚は結婚とか子供とかの話題が出ると、会話から即座にフェードアウトするのです。彼には、男というものは結婚して子供を持って一人前、みたいな考えがあるのでしょう。
これも彼の物語世界。彼は会話からフェードアウトする事でその物語世界を私に強制しようとする。正確に言うと、彼が強制しようとするのではなく、物語世界が彼をして強制せしめるということでしょう。

そう彼は奇妙な物語世界の中に閉じ込められている。

彼が彼らの物語世界で語る言葉は、私にはきわめて凡庸に聞こえます。しかしこの世界には物語世界が多重構造的に積み重なっています。私自身も何らかの物語世界の閉じ込められているのでしょう。私の言葉も凡庸に聞こえるということはもちろんありえるでしょう。

この「凡庸な芸術家の肖像」という本は、凡庸なマキシム.デュ.カンという芸術家について延々と語ります。文庫本で1000ページあります。実際読むのに2週間かかりました。そのうち凡庸なるものに愛さえ感じてきます。人間にはどうしようもないという事がありえるのです。もちろん誰にでも。


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