坂口安吾が昭和12年に仲良くなった浮浪者がこういうのです。

「先生はとらわれているんだ。人間にはふるさとがあるんだ。父親とか母親とかそんなチンケなものじゃない。とらわれた人間にはそのふるさとは見えないんだ」

わたしも45になって、とらわれる事も少なくなったと思う。誰に何を思われてもどうでもいいとは思うのだけれど、子供だけは可愛くてしょうがない。これはどうなんだろう。とらわれているのだろうか。
6歳の娘が可愛いのです。
ほっぺの丸いふくらみ。同じシャンプーを使っているにもかかわらず、髪の毛からとてつもなくいいにおいがしたりします。時おり意味もなく「ニャンニャン」とか言ったりします。なんていうのだろう。目に入れても痛くないなんていうありふれた言葉ではないのです。みっしりとした重量感のある何ものかがありありとした存在感を持って私の胸を突き上げてくるのです。

私はとらわれているのか。そうではなくもしかして娘こそがふるさとなのではないか。

職場にも若いやつがいて、結婚はまだまだなんていっています。おまえは危ないぞ。33歳までは結婚は考えないって、それは自分だけで決められる事柄ではないからな。多くの男性にあのムスメというものの重量感みたいなものを体感して欲しい。彼女がいなければ話にならない。子供も出来ない。ムスメも出来ない。出会いがないから彼女が出来ないって、おまえ何様だ。ざっくばらんな感じで何でもやっていかないと。もう文化祭とかはないんだよ。

子供のあの存在感って、アレなんなんだ? 歳をとるにつれて物事の存在感って薄れていく。これは別に難しい事を言いたいわけでもなく、ほんとにそうなの。ただ子供のみがリアルに存在し続ける。若い時ハイデガーの存在と時間なんて読んだけど、実存なんてあるものはあるって当たり前だろって思った。なに言ってんだハイデガーっ思った。しかしこの世界で歳をとると、価値がないと思えるものはどんどんその存在が薄くなっていく。この世界で時と共に価値が減価しないものが結局「実存」だという事なのか。ムスメは実存か。